霜多さんの父の代から始まった霜多家の農業。祖父は大工だったのだが、戦争で兵隊に駆り出されていた父が、復員してから稲作を始めたのだった。高校を卒業して、農家を継いだ霜多さんだが、その頃、父と一緒に仕事をする上で、農業のやり方など様々なことで反りが合わず、喧嘩ばかりしていた。
若さゆえの反抗だったのだろう。
20歳になった春のある日、とうとう霜多さんは家を飛び出した。家にいてもぶつかってしまうので、ちょっと家から離れてみよう、と思いつき、英語の辞書を持って、羽田空港に向かい、イギリス行きのチケットを買って、飛行機に飛び乗った。
これだけでも20歳の、しかも1960年代半ばの日本人の若者の家出としては、相当に破天荒だと思うのだが……、話が面白くなるのはここからだ。なんと到着した先は、目指したイギリスではなかった。
英語ならどうにかなるかもと思ってイギリス行きを決めたのに、空港についても係員の言っていることがさっぱりわからない。それもそのはず、そこはフランス語が飛び交う、フランスだったのだ。なんでフランスに来てしまったのか、霜多さんには今でもさっぱりわからないのだそうだが、どうも羽田でチケットを買い間違えたらしい。(そんなこと、あるのか?!)
困ったが、お腹は減る、とりあえず何か食べたい、と街の食堂に入った。
この食堂での食事が、霜多さんの道を決めるのである。
私も学生のときに初めて行った時にそう思ったが、フランスではなんてことない街の安食堂ですら、とんでもなく、おいしい。 霜多さんにとってバター、チーズ、生牡蠣……、初めて食べるものの全てが美味しかった。
そしてなんといっても、赤ワインと分厚いステーキ、その上にかかっているハーブのソース。
全く馴染みのない食べ物にもかかわらず、これらの美味しさと香りの素晴らしさが、その時の霜多さんには、はっきりとよく分かったのだった。
よし、帰って日本でこれを作ろう、日本でもこれからきっと食事の洋風化が進むだろう、そうなればきっと日本でもハーブの需要があるはずだ、と霜多青年は心に決めて、日本へと帰った。
そうして父と仲直りし、次の稲刈りが終わってからすぐに、再度イギリスとフランスへと渡ったのであった。
今度は貧乏家出旅行ではない、ハーブを学ぶためのビジネスの旅である。
それからというもの、毎年農閑期になると、多い時は年に2回、3回と霜多さんは家を離れてヨーロッパ中を一人で旅し、彼の地の農業や作物を見て回り、先々でハーブの写真を撮り、ノートをつけた。
レンタカーを借りて、山間部や寒い地方の畑を旅し、夜の畑の気温を体感するために畑に寝泊まりし、怪しがられてパトカーが来てしまったこともある。
イギリス、フランスだけでなく、友達のパプリカ農家もあるというオランダや、時にはイスラエルやエジプトまで出かけることもあった。
代々住む土地とともに、季節を通してコツコツと作物を作り続ける……日本の農家といえば、なんとなくそんなイメージが私にはあった。
けれども霜多さんは、日本の農村にはない、ヨーロッパの自由な雰囲気が好きなんだという。旅に出ると自分が知らなかった新しいものがわかるでしょ、だから農家だって、なんだって海外を一人で歩くことがやっぱりいいんだよ、と霜多さんは言う。
ヨーロッパなら、どこでも一人で行けるよ、俺はね! それに一人旅じゃないと、外国では新しい友達はできないからね。と霜多さんは豪快に笑っていった。
松本美枝子