すでに中筋さんは、多様な表現方法で3.11の記憶を表現し、語り継ごうとしている人々に多数出会っていた。画家と映像作家に「一緒に展示会をやらないか」と声をかけると、やりましょうという答えだった。こうして2017年に練馬区立美術館で始まったのが「もやい展」である。
東京で幕をあけた「もやい展」は、回を重ねるたびに参加する作家や手伝う人も増えていった。2019年の金沢21世紀美術館での展示では、14人のアーティストが参加。2021年の東京江戸川区のタワーホール船堀での展示では、演劇や朗読、音楽などのパフォーミングアーツも加わり、総勢50人近い表現者が参加した。2022年の横浜の展示では、震災当時まだ10代だった若手アーティストも発掘し、ウクライナ人アーティストも招待した。毎回、作家の垣根を超えて作品が有機的に絡み合い、まるでひとつのインスタレーションに見えるように展示された。そこが、中筋さんがこだわった点だった。
「普通、グループ展は作家のヒエラルキーで置く場所とか順番とか決まったりするんだけど、そういうの、俺らには関係なくって」
「もやい」という言葉は、もともと船のロープの結び方のことで、船をつなぐことを共同で行うという意味である。さらにそこから生まれた「もやい直し」という言葉は、水俣病の社会運動から生まれた理念で、分断された地域社会や、人と人との関係、 自然と人との関係を繋ぎ直すという意味がこめられている。その「もやい」という言葉を拝借したのが「もやい展」だった。福島もまた、震災と原発事故により、かつて類のないほどの亀裂と分断が生まれた土地である。
2010年代も終わりに近づくと、震災の記憶をどう語り継いでいくのかという新たな課題も浮かび上がり、被災地各地で伝承施設が立ち上がった。2020年、福島では住民の避難指示が続く双葉町で「東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープン。私も2度訪れたことがあるが、豊富な資料やデータ、記録映像、物証を駆使した近代的な施設である。震災の記録からはじまり、未来に向かって展示が進んでいく構成になっていて、情報量としてはかなりのものだし、最後には語り部の生の話も聞くことができた。それなのに、見終わったあとには、何かが足りないような感じもあった。
中筋さんも、最初に訪れた時にどこか違和感を感じたという。
「100人おったら100人が言いたいことがある。いまだ故郷を追われたままの数万人の忸怩たる思いはどこに行ったらいいのか?だから、俺たちの声がモザイク状になった伝承施設ができないかなと思って」
本来ならば聞こえるはずの多様な声が、まるでひとつにまとめられてしまったような感じかもしれない。「モザイク状」という中筋さんの言葉の奥底に、「おれたち」はひとりひとり違うし、誰の声もひとつにまとめたりしない。ましてや代弁したり、させたりもしないという意思を感じる。
中筋さんは、作品を常設的に展示できる場所を探し始めた。最初はもともと縁が深かった浪江町で探し始めたが、簡単には見つからなかった。