2016年から撮り溜めた写真とともに、全国を巡回する写真展を企画した。ワンボックスカーに作品写真を詰めこみ、北は北海道、南は長崎まで全国の美術館やギャラリーを目指した。SNSで手伝ってくれる人を募集すると、「面白そうだから」と手伝ってくれる人もたくさん現れた。来場者があたかも被災地に紛れ込んでしまったかのような臨場感がある展示を目指した。
被災地から遠く離れたところでは、多くのひとが興味深く展示を見てくれた。「また展示あったら教えてください」と声をかけられることも少なくなかった。しかし、福島で展示をした時は、展覧会場は静まり返り、声をかけるとまったく異なるリアクションが返ってきた。
「写真をみるなり、うっと唸って、まだこの現実を直視できないです、という人もいたし、芳名帳にお名前を書いていってくださいと言うと、いや、こういうところに来ていることがバレると怒られるんで、とか言いながら急いで去っていく人もいた。その時さあ、思ったんだよね……」
……もしかしたら、写真というのはリアリティが強すぎるのかもしれない。
なるほど、わかるような気がします、と私は答えた。
私自身も生々しい視覚情報が苦手なほうだ。現実を直視しなければと思っても、生々しい映像や写真を見てしまうと脳裏に焼き付いて離れなくなり、眠れなくなってしまう。だから、自分の心を守るために、あえて見ないようにしているものも少なくない。しかし、不思議なもので、文章で読むことや、誰かの話を聞いたりすることはできたりする。そういうひとは決して私だけではないのだろう。
中筋さんは、かつてウクライナで見たアート教育のプログラムを思い出した。それは、語り部から原発事故について話を聞いた子ども達が、想像で絵画にするという活動だった。そこで見た絵は、荒野に立つ三本の枯木の奥に、真っ赤に焼けた空に現れる太陽。それは、中筋さんが見た浪江町の海辺の風景そのものだったという。
そうだ、伝承というのは、そういうことなんだと中筋さんは思った。
写真のような直接的な表現ではなく、見た人が感じたり、考えたりするという、余白のある表現方法はないだろうか?