今は『アルプ』の存在を知らず、知床観光のついでに訪れる人も少なくない。「斜里に行ったら、訪れたほうがいいと勧められて」とクチコミでくる人もいる。2005年に世界遺産に登録されて以来、知床は人気の観光地だ。私のように流氷ウォークに参加する人も多い。斜里町のホームページにも流氷ウォークの写真が大きく掲載されている。
いま一度、北のアルプ美術館ができた時に串田孫一さんが贈った「病める地球」についての言葉を思い出したいと思う。
"北海道の斜里の、この美術館のあるところから、病める地球が見事に癒されて行く爽やかな緑が、先ず人々の心に蘇り、ひろがっていくことを願っている"
元々は、もっと長い文章で、人間が欲のために自然を傷つけてきたこと、その根元にあるのは人間の心の歪みであることが綴られている。
残念ながら、地球はますます傷つき、病んでいる。加速する地球温暖化や海洋汚染、動植物の絶滅。気象庁によると、オホーツク海の流氷の面積は過去40年間で約30%減少し、2050年までに現在の3分の1まで減るとの予測もある。いつか日本では流氷が見られなくなる日がくるのだろうか? 本当にそれでいいのか? その日に嘆いてみてももう遅い。
「以前はもっと大きな流氷がどんどんやってきたんですよ。そうするとね、大きな流氷の塊がぶつかって、きしみあって、すごい音がするんです。ギシギシとか、キーンって。流氷鳴きって言うんですけどね。今はあんまり聞こえなくなりましたね」
流氷の話をしているとき、ちづ子さんの目が輝く。
この人は、本当に流氷が大好きなんだなと思う。
知床滞在の終わり、私も流氷の音を聞いてみたくなった。
マイナス10度を下回ったある夜に、斜里町に住む人がよく流氷の音が聞こえるという場所に連れていってくれた。
雪をかき分けて林を進み、流氷が見える高台に立った。
満月に近い夜で、月のまわりに美しい光の輪ができていた。
私は、寒さも忘れてただ息を呑んだ。
海の方角にはどこまでも氷原が広がり、月明かりを反射していた。白い世界が白い光に包まれている。それは、昼間の賑やかな流氷ウォークとは対照的な静けさで、世界中の時計が止まってしまったみたいだった。
しばらく耳を澄ませた。
流氷の音はどんな音だろう。
じっと、待っていた。
しかし、いつまで経っても流氷の音は聞こえなかった。
まるで叫び声のような、甲高い狐の鳴き声だけが響いていた。