さて、そんなブームの主役ともなる麹とはなんなのか。それを石黒さんに教えていただくのだが、麹の前に種麹である。
種麹とは、麹菌の胞子を集めたもののこと。種麹の具体的な作り方は秘伝だが、胞子を培養する過程で椿の葉を灰にしたものを撒き、コウジカビだけが育つように仕向けていくのだという。
「椿の灰はアルカリ性で、その環境で生きていられる菌は麹菌だけなんです。わたしのところでは椿の山を持っていましてね、夏になると2週間くらいかけて椿の葉を燃やしてね、灰にするんです」
種麹作りに、まさか山を持つほど椿の葉っぱが必要になるとは知らなかった。そう告げると石黒さんはにこにこして、「空気と水がきれいなところなので、山にはオロロがたくさんいてねえ、大変なんですよ。オロロってご存知ない? アブのことですよ」と言う。
「むかしは、田んぼに天然の麹菌がいっぱいあったんです。農薬をまくので、今はほとんど見かけませんがね。ニホンコウジカビの学名は、アスペルギルスオリゼーというんです。アスペルギルスはカトリックで聖水を振りかけるときに使う道具のこと、オリゼーは稲という意味なんですよ」
麹菌は、日本をはじめ湿度の高いアジア圏にしか存在しない。なかでも発酵食品に使われるニホンコウジカビという麹菌は、日本特有のもので国菌に認定されている。お米作りをしてきた国だからこそ繁殖できた菌、と言えるのかもしれない。
そんな麹菌からできた種麹を、石黒さんが持ってきてくれた。ちょっと見たところではなんの変哲もない粉末で、栗のような味がするらしい。
この種麹を蒸して冷ましたお米に振りかけ、こうじ蓋と呼ばれる薄い板のようなものの中にならしていく。麹菌が空気に触れるように2〜3センチの厚みで平たくしていくことで、力の強い麹ができあがるという。
室の中の温度は32度、湿度はほぼ100%。人間にとってはかなり耐えがたい環境だが、発酵には適温である。これを石黒さんはストーブと、その上に置いたやかんの蒸気で調節する。
「先代の口癖は、『麹職人が温度計なんか使うな』でした。でも修行をはじめたばかりのころは、父によく『肌で温度管理するなんて非科学的なことをしないで、温湿度計をつけるべきだ』って抗議していたんです。だって肌の感覚なんて、その日の体調とか外の寒さとかでも違うもんでしょう? でも、父は頑なにうんとは言いませんでしたね」
何度も温湿度計を隠して持ち込んだがその都度捨てられ、仕方なく石黒さんは室の中で一ヶ月寝泊りすることで、肌感覚を身につけたという。そうして少しずつ慣れていき、今ではわずかな差も肌で感じられるようになった。
「3年前から教えはじめている息子にもね、やっぱり温度計を使えばいいって言われるんですよ。それでわたしが『いや、温度計より肌の感覚で……』と言っているんですから、おもしろいもんでしょう」