まずは、そもそもなんで弘前に忍者がいたのかという話をしよう。戦国時代、弘前を含む津軽地方を領有した大名の津軽為信は、関ケ原の合戦(1600年)で徳川家を中心とした東軍として戦った。その一方、一族を存続させるために長男の信建を石田三成率いる西軍に派遣した。
西軍が破れた後、信建は石田三成の次男、石田重成を津軽に連れ帰った。その背景には、かつて津軽為信が領土問題で他家と揉め、秀吉から討伐対象とされかけた際に、石田三成の計らいで事なきを得たことがあった。津軽家から石田家への恩返しだ。
石田三成の祖母は甲賀出身で、三成も若かりし頃、武芸と兵法の修行のために甲賀で過ごしたと言われている。当然、甲賀忍者ともつながりがあり、石田重成が津軽に逃れる時、警護役として甲賀忍者が同行したと考えられている。
余談だが、重成と同じく関ケ原の合戦の後、津軽に渡った石田三成の末娘である辰子姫は、二代藩主・津軽信枚(のぶひら)の側室となり、生まれた信義(のぶよし)は三代藩主となった。津軽家は石田三成の血を引き継ぐことになったのだ。
石田重成は津軽で杉山源吾と名乗り、弘前藩・津軽家の加護を受けて暮らした。その長男、杉山吉成は津軽為信の三男で弘前藩主を継いだ津軽信枚(信建の弟)の娘と結婚し、家老となった。
その後の1669年、北海道で先住民族のアイヌが蜂起した「シャクシャインの戦い」で、幕府から出兵を命じられた津軽藩の侍大将として現地に出向いたのが吉成。その際、諜報活動を行うために甲賀忍者の系譜を継ぐ忍者集団が暗躍したようだ。