「旧外川家住宅」は、明和5年(1768年)に建築され、平成16年(2004年)に市に寄贈された御師の家。取り壊されたり改築される御師の家も多いなか、長い歴史を持つ御師の家の雰囲気をそのまま体感できる場所だ。国の重要文化財及び世界遺産富士山の構成資産にも指定されている。
主屋と裏座敷の2棟で構成された旧外川家住宅には、当時の資料や写真、使われていた道具などが展示されている。スタッフの渡辺肇(はじめ)さんが、富士講や御師の歴史を詳しく説明してくれた。
富士講の歴史は、室町時代末期まで遡る。もともと富士信仰を持つ人々はいたものの、団体として富士講を作り教えを説いたのが、富士講の開祖といわれる長谷川角行(はせがわかくぎょう)だ。
この角行という人の言い伝えは、不眠や断食、100回を超える富士登頂など、すさまじいものが多い。そのなかでも69歳のときに、極寒のなかを裸で岩の上につま先立ちをし続けた苦行が有名で、全身から血を吹き出して地域の人々に止められたという。想像しただけでつらい。
角行が教えを説いた富士信仰が、爆発的なブームとなったのは6代目の指導者、村上光清(むらかみこうせい)と食行身禄(じきぎょうみろく)というふたりの人物がきっかけだったと言われている。
ふたりともがそれぞれ思想を広めていったが、特に食行身禄のほうは「特別なことをしなくとも、素直な日々の行いが富士山の神に届く」という思想を説き、庶民の心を掴んだ。食行身禄は最後、富士山の8合目で永遠の瞑想に入り即身仏になったと言われている。
こうして大衆化された富士信仰により、江戸時代には江戸を中心に「富士山ブーム」が起きた。さらに明治時代まで進むと、鉄道などの交通機関の発達により多くの人々が富士山を目指すことができるようになった。それらの理由が重なって、御師の町を訪れる人が爆発的に増えていったのである。