未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
153

富士山の麓で祈る町・上吉田 信仰心を支えた御師の家

文= ウィルソン麻菜
写真= ウィルソン麻菜
未知の細道 No.153 |10 January 2020
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#5御師の衰退

最盛期の御師の町を描いた資料。左下から伸びている大通りに沿って、御師の家々が並んでいるのがわかる

富士信仰のブームに伴い、最盛期には86軒まで増えた御師の家。夏の富士登山の時期には、御師の家の廊下にまで富士講の人たちが溢れかえっていたという。

ところが、現在残っている御師の家は18軒で、富士講の人たちを受け入れている家は、もう数えるほどしかない。この400年ほどの間に、一体何があったのか……。

お話を伺いに、私が訪れたのは「fugaku wood works × hitsuki guest house & cafe」。18代目御師である大鴈丸一志(おおがんまる ひとし)さんと奥さんの奈津子さんが、衰退していく御師の文化を守ろうと、実家の御師の家を複合型ゲストハウスとして蘇らせた場所だ。

fugaku wood works × hitsuki guest house & cafe

細長いタツミチを通って奥へ進む。なんだか「御師の家に入る覚悟はあるか」と聞かれているような緊張感。気持ちは身を清めたつもりでヤーナ川を通り過ぎ、中に入ると、一志さんと奈津子さんが娘さんと一緒に待っていてくれた。薪ストーブの温かさに、一気に緊張が溶けるのを感じた。

18代目御師の大鴈丸一志さんと、奥さんの奈津子さんと娘さん

入り口には大鴈丸家にある御師の資料や写真が並ぶ。区切れば5部屋の客室になる広い和室が、実際に富士講の人々が宿泊していた場所だ。

  • 「大鴈丸」と書かれた家が、当時の資料の中でちゃんと同じ場所にあった
  • 富士山北口御師団は今でも存在し、お祭りのときなどに活動している

400年以上の歴史を持つ大鴈丸家も、御師の家として富士講の方々を迎え入れていたのは14代目まで。以降、民宿「富岳荘」として観光客を受け入れていたが、それも一志さんのおばあさんの代まで。一志さんがゲストハウスにしなければ、家自体も取り壊すつもりだったという。

なぜ御師の家が姿を消していったのか聞くと、皮肉にも、富士山と人々の距離が縮まったことが理由だった。

「まずは富士登山が、信仰の対象ではなくレジャーとなっていったこと。御師は祈祷をする宗教者としての役割もあったので、レジャーの登山では祈祷の必要がなくなりました。そして、もうひとつは『富士スバルライン』ができたことが大きいですね」

富士スバルラインは、富士山の五合目まで舗装されたドライブウェイのこと。富士登山経験者であれば、ほとんどの人が利用したことがあるはず。昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催に合わせて開通して以来、五合目まで車で行くことができるようになり、麓から登る人は激減した。

北口本宮富士浅間神社にある、吉田口登山道の入り口。富士スバルラインがない頃の人々はここから富士山に登った

祈祷も、麓での宿泊も、必要としない富士登山。そんな風潮とともに、御師の数が減っていった。

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未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭り」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、知られざる祭りに参加して、その様子をお伝えします。
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