富士信仰のブームに伴い、最盛期には86軒まで増えた御師の家。夏の富士登山の時期には、御師の家の廊下にまで富士講の人たちが溢れかえっていたという。
ところが、現在残っている御師の家は18軒で、富士講の人たちを受け入れている家は、もう数えるほどしかない。この400年ほどの間に、一体何があったのか……。
お話を伺いに、私が訪れたのは「fugaku wood works × hitsuki guest house & cafe」。18代目御師である大鴈丸一志(おおがんまる ひとし)さんと奥さんの奈津子さんが、衰退していく御師の文化を守ろうと、実家の御師の家を複合型ゲストハウスとして蘇らせた場所だ。
細長いタツミチを通って奥へ進む。なんだか「御師の家に入る覚悟はあるか」と聞かれているような緊張感。気持ちは身を清めたつもりでヤーナ川を通り過ぎ、中に入ると、一志さんと奈津子さんが娘さんと一緒に待っていてくれた。薪ストーブの温かさに、一気に緊張が溶けるのを感じた。
入り口には大鴈丸家にある御師の資料や写真が並ぶ。区切れば5部屋の客室になる広い和室が、実際に富士講の人々が宿泊していた場所だ。
400年以上の歴史を持つ大鴈丸家も、御師の家として富士講の方々を迎え入れていたのは14代目まで。以降、民宿「富岳荘」として観光客を受け入れていたが、それも一志さんのおばあさんの代まで。一志さんがゲストハウスにしなければ、家自体も取り壊すつもりだったという。
なぜ御師の家が姿を消していったのか聞くと、皮肉にも、富士山と人々の距離が縮まったことが理由だった。
「まずは富士登山が、信仰の対象ではなくレジャーとなっていったこと。御師は祈祷をする宗教者としての役割もあったので、レジャーの登山では祈祷の必要がなくなりました。そして、もうひとつは『富士スバルライン』ができたことが大きいですね」
富士スバルラインは、富士山の五合目まで舗装されたドライブウェイのこと。富士登山経験者であれば、ほとんどの人が利用したことがあるはず。昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催に合わせて開通して以来、五合目まで車で行くことができるようになり、麓から登る人は激減した。
祈祷も、麓での宿泊も、必要としない富士登山。そんな風潮とともに、御師の数が減っていった。