大鴈丸夫妻の紹介で、同じく400年以上の歴史を持つ御師の家、菊谷坊(きくやぼう)を訪れた。案内してくれたのは、菊谷坊の18代目である秋山真一さん。大鴈丸さんと同じく、真一さんも御師の文化を残したいという思いで、この秋から実家の菊谷坊を宿坊として活用し始めた。
菊谷坊に残る、当時の写真や古道具などを見せてもらう。まるで映画の小道具のようだが、すべて実際に使われていたと聞き、ここで暮らしていた人たちをについて思いを巡らせた。
例えば「マネキ」という掛け軸のような幟。それぞれに富士講の名前やマークが書かれており、富士講の役員が交代するときに挨拶の意味を込めて贈られたもの。
「僕の両親は、まだ富士講の方々が宿泊していた頃にわかりやすいように外にかけていたこともあるようです。旅館に書かれている『誰々御一行様』みたいなものですね」
真一さんがわかりやすく教えてくれる。多くの富士講はお世話になる御師の家が決まっており、それ以外の御師の家に泊まることはなかったという。先程、大鴈丸さんが「大学のサークルで泊まるホテルは毎年一緒、という感じ」と言っていたのを思い出し、みなさん例え話がうまいなと思った。
真一さんによれば、上吉田は富士山の麓であるがゆえに斜面で、土地自体も農作物が豊かに育つような場所ではなかった。だからこそ、より多くの富士講の人々を受け入れることで町を繁栄させてきた歴史がある。
「夏には富士講の方々を受け入れ、冬になると今度は御師が富士講の元を訪れたと聞いています。富士講へ挨拶周りに行くついでに翌年の日程調整したり、御札を配り歩くなど、今で言う営業活動をしていたようです」
菊谷坊では、真一さんのひいひいおじいさんにあたる14代目の君平さんが熱心に富士講を回り、菊谷坊と多くの富士講のつながりを作ったそうだ。そのときに使っていた旅行かばんが、今でも菊谷坊に残されている。