「御師の町」に到着した私は、その入口とされる「金鳥居(かなどりい)」の前に立っていた。
天明8年(1788年)に、富士講の助力によって建てられ、その後何度も再建されたという立派な鳥居。俗界と富士山の世界を隔てると言われ、富士講の人々にとって金鳥居から先は神聖な場所だったそうだ。
この金鳥居、全盛期には御師の町の入り口として「案内所」のようなものまであったという。定宿がない富士講の人々は、この案内所で一見さんでも泊まれる御師の家を紹介してもらうこともあった。
江戸から甲州街道を歩いてやってきた彼らにとって「やっと着いたぞ」と、安堵する場所だったのではないだろうか。もしくは、神聖な富士山の世界に入る緊張感があったのだろうか。
そんな想像をしながら金鳥居をくぐりぬけると、目の前に広がる一本道。ここからが、御師の町と呼ばれる上吉田(かみよしだ)エリアだ。
実は、御師の町は最初からこの場所にあったわけではない。古吉田(ふるよしだ)という、ここから数キロ離れた場所に、もともと御師の人々は暮らしていた。しかし、富士山の雪解け水による水害、通称「雪代」が多く、元亀3年(1572)に現在の上吉田に集団移転してきたという。
上吉田と呼ばれるものの、地図上は南側に当たる。ここでは富士山に近いほうが「上」と呼ばれているので、地図とは逆さまの地名になってしまうのだ。この地域が、いかに富士山が中心とされてきたかがわかる。
ぴんと張り詰めた冬の早朝の空気のせいもあって、少し緊張を覚える。さあ、御師の町へ。