ある夜のこと。20時くらいだっただろうか。私は友人のくみちゃんと夜の街を歩いていた。するとくみちゃんが突然、もう閉館したギャラリーのショーウィンドウの前で立ち止まって「これを見たい!」と言いだした。中を覗くと、漆塗りや木工などのさまざまな伝統工芸品が並んでいる。
さらにその奥に、ひときわ美しい雛人形が見えた。どうやらくみちゃんは、その人形をどうしても間近で見たくなってしまったらしい。某有名化粧品ブランドに勤め、とある百貨店の1階で美容の仕事をしている彼女は、きれいなもの、かわいらしいものに目がないのだ。
閉館したギャラリーでは展示品の搬出作業が始まっていたところだったのだが、扉が開いているので、思い切って「見せてもらえませんか」と声をかけてみた。すると一人の男性が快く応じてくれ、この雛人形のつくりを丁寧に説明してくれた。
その人こそがこの雛人形を作った人形作家、小佐畑孝雄(こさはたたかお)さんだったのだ。人形の顔立ちや所作も、そして伝統的な十二単のなかに垣間見えるモダンで斬新な色使いもさることながら、それにすっかり心を奪われている様子のくみちゃんを見て私は思った。
私はこれまで雛人形とは、自分の日常からは少し遠い、高価な「伝統工芸品」だとしか考えていなかった。でも目をキラキラさせて美しい雛人形を見ている友人を見ていたら、雛人形の持つ輝きは、これまで何百年も日本の女の子たちの心をつかんできただけあって、もしかしたら、すごい力なのかもしれないなあ、とふと思ったのだ。 そんな雛人形は一体どうやって、この世に生み出されているのだろうか? 優しそうな小佐畑さんの雰囲気にも、ますます興味がわいた。そしてその場で「ぜひ工房を見学させてください」とお願いしたのであった。
こうしてやってきた城里町桂地区の「小佐畑人形店」。もちろん、くみちゃんもいっしょだ。出迎えてくれた小佐畑さんは、さっそくこの土地と桂雛の歴史を語ってくれた。
城里町から20キロほど離れた茨城県水戸は、かつては雛人形の町としても栄えていた。「水府雛」である。(水府は水戸の古称)。昭和40年代までは日本で3本の指に入るほどの大きな問屋もあったという。だが今では水府雛の作り手は一軒しかない。人々の生活スタイルが大きく変わったことにより、伝統工芸の多くがいわゆる「衰退産業」となってしまい、雛人形づくりもその一つであるからだ。
小佐畑さんの祖父は、もともとその「水府雛」の職人だった。独立して、どこに店を構えようか、ということになった時に思い浮かんだのが、水戸からもそう遠くない「関東の嵐山」、旧桂村だったのだ。
「祖父は真面目な昔堅気の職人だったので、宮中ゆかりの雛人形の流れを守ることを大切に考えていたのでしょうね」風光明媚で、かつ古くから都の伝説が残る桂村は、雛人形作りにはぴったりの雰囲気の土地柄だったのだ。
こうして1930年(昭和5年)ごろから、桂村での小佐畑家による雛人形作りが始まった。これが雛人形の産地「桂雛」の始まりである。こうして江戸時代から続いてきた「水府雛」の系譜が、少し離れた山あいの町に、今でも「桂雛」として根付いているのである。
松本美枝子