さて、ここでちょっとだけ、私が住む水戸の話をしよう。街の人たちに愛されている一軒のイタリア料理店がある。トラットリア・ブラックバードだ。若きオーナーシェフ、沼田健一さんによる季節の魚介と野菜をふんだんに使ったパスタを中心とする料理とともに、この店のもう一つの目玉は、専任のバリスタがいて、いつでもおいしいコーヒーが飲めるバールがあることだ。いくつかのこだわりのコーヒー豆を取り寄せて使っているブラックバードだが、なんとその中には加藤さんの豆も使われている。
なぜ、人気レストランがコーヒーのプロではない、建築家が焙煎するコーヒー豆を選んだのか? 私はシェフに聞いてみることにした。
「加藤さんが講師をしている専門学校がこの店の向かいにあって、ランチにくるお客さんだったんですよね。知り合っていくうちに加藤さんの建築もワークショップも、とても面白いな……と、ずっと思っていた。僕は面白いことやっている人と、何か一緒にするのが好きなんですよ。だから僕から加藤さんのコーヒー豆をうちの店で使わせてください、と頼んだんです」と沼田さんは微笑んだ。
とはいえ「面白い建築家であるお客さんが作っているコーヒー豆」というだけでは、人気飲食店では使うことができないだろう。「やはり最終的に決めたのは味です」と沼田さんは深く頷いた。最初は「いい趣味だなあ」と微笑ましく思っていた加藤さんのコーヒーを飲んでいるうちに、半年ほどで「これは!」という味に変化してきていることに、沼田さんは気づいた。加藤さんがちょうど「クロニクル・コーヒー」という屋号を使い始めた時だった。「加藤さんの実験は、理想とするラインに近づいている時なのかも知れない……」そう思った沼田さんは「加藤さんの豆に乗っかってみる!」ことにしたのだという。
ブラックバードのバールはエスプレッソが看板メニューだが、もう一つ、何か新しいコーヒーを出したいな、とちょうど考えていたところだった。そこで、ランチの忙しい時間帯でもおいしいコーヒーを出せるようにフレンチプレス用の豆を開発してほしい、と加藤さんに依頼したのだという。そこから加藤さんと沼田さん、バリスタの星野さんとの実験がはじまり、ブラックバード専用のコーヒー豆ができあがったというわけだ。
金属の漉し器を使うフレンチプレスは、ペーパードリップなどに比べて油分までも抽出できるため、良くも悪くも豆の個性が味わえる。逆に言えば余計なものが入っている豆は、その欠点を露呈してしまう。クリアな味が信条の加藤さんの豆は、そんなフレンチプレスで入れるのに実はぴったりなのだった。お客さんの評判も上々で「今まで苦手だったフレンチプレスに対する考え方が変わった」と言ってくれるお客さんもいたほどだ。
ブラックバードでいよいよ「クロニクル・コーヒー」がだされる頃、お店に一つの荷物が届いた。それは益子の人気陶芸家・鈴木稔さんによるコーヒーカップのセット。クロニクル・コーヒーによる専用カップの提供だった。
実はクロニクル・コーヒーには専用のカップがある。ただおいしく飲むだけではなく、飲む姿が優雅に見えるようにと、カップの色、サイズ、フォルムなど加藤さんの要望を受けて細かいところまで工夫がなされている。それも加藤さんがコーヒー豆の焙煎を始めたことを知った鈴木さんが、自ら申し出て、制作してくれたものだった。他にもデザイナーやアートディレクターなど、その道のプロたちに加藤さんのコーヒー豆のファンは多い。飲食店だけではなく、そうしたクリエイターたちが手がけるまちづくりのイベントなどで、コーヒーの販売や実演を頼まれることも増えた。
こんなふうにして加藤さんのコーヒー豆は、衣食住のプロたちに後押しされて、「建築家が焙煎するコーヒー」から、「お店で飲めるコーヒー」へと変化していったのだ。
そもそも本業の建築と関係ないコーヒー豆焙煎を、販売するところまで行う、ということは最初から決めていたんですか? と私は加藤さんに問うた。
すると加藤さんはにっこり笑ってこう答えた。
「僕、あざといからねえ、これが成功するのはわかっていたんだよねえ!」
そう、実験の積み重ねは、いつだって成功を導くためにあるんだよな……、加藤さんのコーヒーを味わいながら、私はそう思わずにはいられなかった。
とはいえ加藤さんはコーヒー焙煎を事業拡大することは考えてない。あくまでも手作業のみで十分な手間と時間をかけられる量しか生産しない、と加藤さんはいう。少量だと常に新鮮なコーヒーを味わえるのもポイントだ。身の丈にあった量だからこそ、大手にはできないおいしさを追求できるわけであり、そこにこそ建築家、加藤さんが焙煎をする意味があるというわけだ。
松本美枝子