「これがない不便な時にイタリアに行けてよかった」
佐竹さんは時折スマホに手を伸ばしながら、何度も繰り返した。
「スマホは便利なんだけど、自分だけのものを手にしているという実感がない。不便だからこそ集中できる、発掘できるってあるじゃないですか。自分は6年間、イタリアの未知なる食材や料理、面白いものや自分に合うものを延々と追い求める探求心があった。探そうという気持ちが湧いてくる時代にイタリアで過ごせたのは、ラッキーだったと思っています」
Appleがタッチパネルのスマートフォン「iPhone」を発表したのが2007年。2007年より前のイタリアは、たとえ同じ場所に行ったとしても、もう味わえない。佐竹さんの口から飛び出した当時のエピソードは、2000年からイタリアで過ごしてきた私の記憶のなかの、二度と出会えない風景を呼び覚ましてくれた。
「IL COTECHINO」で食事をした夜、この日の取材に同席していた娘が耳慣れた旋律を口ずさんだ。
「ママ、『ラジオイタリア』だよ!」
店内のBGMだったインターネットラジオから流れてきた音階は、イタリアでドライブのお供によくかけているラジオ局のテーマソングだった。
イタリアと山形が音で繋がっていることに、私はその時まで気がつかなかった。「IL COTECHINO」の雰囲気が、私の心を山形から1万キロメートル以上離れたイタリアに飛ばし、すっかりイタリアにいる気分になっていたのだ。しかも、いまのイタリアじゃない。20年前のイタリアに心がタイムスリップできるという、特殊効果付きだ。
おいしいハムだけじゃなく懐かしい記憶も味わえるレストランは、イタリアでもどんどん少なくなっている。
「あー、ちょっとイタリアに行きたくなってきたぞ」
昔話に花が咲いた長い取材の最後に、佐竹さんは背中を伸ばしながら呟いた。聞けばイタリアに最後に行ったのは2012年、この1年ぐらいはイタリアの本を読んでいないという。
「勉強すればするほど、新しい知識やテクニックを試したいって気持ちが出てしまうので、休んでいたんです。いまは充電期間ですね」
円熟期を迎えた「IL COTECHINO」に現在のイタリアの風が入ったら、どんな雰囲気になるんだろう。どんな味に出会えるんだろう。
まろやかに変わり続ける佐竹さんとハムを楽しみに、またここに帰って来よう。