紹介されたお店はフランス料理の名店「銀座レカン」。当時の自分に似つかわしくない、すごいところを紹介してもらった、と佐竹さんは振り返る。
とはいえ、佐竹さんの担当は下ごしらえのみ。厨房には厳格な序列があり、そのなかで佐竹さんは一番下っ端だった。3カ月で「技術が足りない」と系列店に出されたが、そこでも担当は洗い場。厨房の先輩たちを見ていて、料理を任されるようになるには、何年も下積みが必要なことがわかってきた。
「自分はもう24歳、遅れている。とにかく料理をやりたかった。このままでは、カフェ飯屋の店長ですらおぼつかないと、焦りましたね」
フレンチの厨房に嫌気がさした佐竹さんは、イタリアンだったら、と、アルバイト情報誌で見つけた神田のレストランに応募した。すると面接で即採用。初日にレシピを渡されて、「料理を作ってくれ」と言われた。開店したばかりで人が足りなかったのだろう。その日から前菜とデザートを任された。
「料理ができて嬉しい」と最初こそ張り切った佐竹さんだったが、ここでも厨房での役割は厳格に分けられていて、メインやパスタは触らせてもらえない。そこで、仕事が終わると業務用スーパー「肉のはなまさ」に寄って食材を買い、疲れていようが遅くなろうが、見よう見まねで覚えた店の料理を作った。休日は必ず池袋のジュンク堂に行き、朝から晩まで新しいレシピ本、食材の本を探した。
2年半勤めた神田の店は「自分の居場所」とは思えなかった。ここを辞めてほかに行くのか。日本のどこに行っても、厨房の縦社会の環境に馴染めないことはわかっていた。もうすぐ28歳、時間の浪費はしたくない。
「本場のイタリアに行って、ダメだったらラーメン屋をしよう」
頭を丸めてから蓄積し続けた「料理に関するとんでもない知識」と折り畳み式自転車を携えて、佐竹さんはイタリアに渡った。