青木さんが亡くなった時点で、周りの人たちが考えていたのは「技術を継げてよかったね、あとはほしい人がいたら作ったら」くらいのものだった。だから、早苗さんの「職人を本業にする」という決断は周囲を驚かせたし、反対もされたという。
「周りは当たり前のように、介護職に戻るか、実家の小間物屋を継げばいいと考えていたみたいで、『そこまで本腰入れてやらなくても……』という反応。29歳という年齢や女性であることもあって、絶対に無理だって言われました」
大きくて派手なハマグリがよしとされる鹿沼箒は、女性がつくったとしても夫の名前で売り出すほどに男性社会。それに加えて、箒もきびがら細工も市場は大きくない。周りが反対する理由は、いくらでもあった。それでも、早苗さんは道が続く限り進んでみることを選んだ。彼女のなかにはちゃんとした「やる理由」があったからだ。
「正直、私もこれで生活していけるとまでは思ってなかったんです。でも『ほしい』と言ってくれる人がひとりでもいる限りは作り続けたいという気持ちでした。そして、ひとりでも『ほしい』と言ってくれるなら、そのために技術を磨き続けなきゃいけない。磨き続けるためには、毎日作り続けられる環境を作らなきゃいけない。そのためにはこれで食べていかなきゃいけない、と思ったんです」
連想ゲームのようにつながっていった先に、今の早苗さんの生き方がある。理由がわからなければ学校から荷物をまとめて家に帰ってしまうような中学生だった早苗さんは、逆にやる理由を見つけた今、常に全力で技術を磨き続けている。