生まれたてほやほやの郷土玩具は、販売も一筋縄ではいかなかった。妻のタケ子さんと一緒に人形町まで出向いては、笑われ、あしらわれながら、何十軒もの土産物屋を回ったそうだ。その話を、早苗さんは少しおかしそうに笑いながら話す。
「『人形を売るなら人形町だ』って思ったんだって。かわいいですよね。おじいちゃんとおばあちゃんは本当に仲が良かったので、ふたりで人形町を歩く姿が目に浮かぶようです」
ほかにも、知人に相談しながら「趣味の民芸」というフレーズをつけたり、梱包の工夫などもしていった。努力の甲斐あって、きびがら細工は少しずつ郷土玩具として知られていった。
そして、青木さんは結局、3人の子どもたちを見事大学まで行かせた。そこにあったのは、「もっと勉強したかった」という自身の思いと、だからこそ子どもたちを進学させてやりたいという親心。箒の売上が低迷していた40年代に、娘も含めた3人の学費を稼ぎだしたのは、まちがいなくきびがら細工だ。
大学まで進んだ子どもたちは、それぞれの道へ。鹿沼箒ときびがら細工を継ぐ予定だった息子も「英語の先生になりたい」という夢を持った。また、高度経済成長の時代では、箒もきびがら細工もそこまで未来があるとは思えない状況。青木さんは「好きなことをしたほうがいい」と息子に言い、きびがら細工は自分で終わるのだと覚悟した。
孫娘の早苗さんが「継がせてください」と頭を下げる、その日までは。