手を動かすよりも、頭を動かすタイプだった青木さんは、職人としての技術を磨くのと同時に「商人」としての才能も開花させていった。それまでは問屋に卸すだけだった箒を、自ら背負い込み、東北を中心に行商して歩いたという。
「行商を始めたのは、おばあちゃんと結婚してからです。仲買人に箒を卸すと手数料を取られちゃうので、それなら自分でと手売りしたそうです」
箒屋が一番上り調子だったのは1930年代。日本の産業発展とともに箒職人も売上を伸ばしたが、その勢いは長くは続かなかった。太平洋戦争が始まった1940年代には、「食べ物以外の作物をつくっている場合ではない」と、ほうききびを育てることが制限された。そして、戦後の高度経済成長、工業化のなかで現れたのが、掃除機だ。人々が掃除機を買い求めるのと反比例するように、箒屋は減っていく。畑をつぶして、その頃増え始めたゴルフ場に勤務するなど、会社員として勤め始める人たちが多かったという。
「箒が売れなくなっていくのは大変でしたけど、多くの人は『もっと稼げる仕事がある』と、ポジティブな転職をしていったようです。最終的な記録では、1962年には鹿沼の箒屋は18軒にまで減っていました」
青木さん自身、箒屋として時代の変化をひしひしと感じていたに違いない。その大きな波のなかでは、鹿沼で脈々と続いてきた「鹿沼箒編みコンテスト」も、そのうちなくなってしまうことは明らかだった。
箒だけでは、家族を養っていけなくなる。その危機感から青木さんが目をつけたのが、行商人として東北を巡った時に見かけた「鳴子のこけし」だった。青木さんがいつから郷土玩具を意識していたのかはわからないが、ひとつの郷土玩具が町全体で愛される姿に可能性を感じたことは確かだ。
自分と家族が生きるための郷土玩具。手元にあった箒の材料「ほうききび」の端材「がら」を使って、青木さんは「きびがら細工」をつくり始めた。