深海魚の取材に来たのだけれど、せっかくだから併設される戸田造船郷土資料博物館も案内してもらうことにした。私はここで、筒井さんから戸田村という小さな港町とロシアの親交の歴史を聞き、胸を熱くした。
話は今から169年前に遡る。1854年11月4日、安政の東海大地震と言われるマグニチュード8レベルの巨大地震が起こった。この地震により起きた津波で、日露和親条約の締結で来日していたロシアのプチャーチン提督の軍艦ディアナ号が大破した。
静岡の下田沖で被災したプチャーチン率いる船員約500名が、助けを求めたのが戸田村だったそうだ。
「プチャーチンさんは、沿岸の漁民たちに助けられて上陸したんですけど、船は沈没してしまいました。帰国するための船が欲しいと幕府に願い出て、戸田で船を造ることになったんです」
見ず知らずの異国の人たちを、献身的にサポートした戸田村の人々。時代は違えど同じ国に生まれた人間として、彼らを誇りに思った。
そしてこれが、日本に西洋型造船技術を伝えるきっかけになったのだ。
「日本の船は“千石船”と言われる木造の和船で、箱型でした。木枠を板で囲ってるだけのイメージです。それに対し、西洋船は龍骨と呼ばれる骨組みをつくっていた。人間でいう背骨とあばら骨をしっかり組んで板で囲うから、和船に比べカーブも出るし、なんと言っても強度が段違いでした」
ロシア人の指導のもと、戸田村の人たちは日本初の西洋船を造り始めた。同館には当時の設計図が展示されている。
造船前に設計図を起こす技術も、当時の日本にはなかったそうだ。設計図を起こさず、どうやって船を造っていたんですか? と聞くと、「木材に直接線を引いてカットしていたそうです」と筒井さん。それもそれですごい......。
言葉の壁も立ちはだかるなか設計図を頼りに造船し、1855年2月、わずか3カ月半のスピードで「ヘダ号」が完成。プチャーチン一行は無事帰国できた。
「プチャーチンは自身の肖像画や記念品とともに『吾が魂を永久に留めおくべし(私の魂はずっとここにある)』という言葉を残したんです。戸田村とプチャーチンの友好関係はあまり知られていませんが、戸田に良い思い出ができたことを表す心温まるエピソードですよね」
プチャーチンが亡くなった4年後、1887年5月に娘のオリガ・プチャーチンが戸田を訪れ、謝意とともに金一封を戸田に渡した。
プチャーチンが戸田号で帰国してから163年後の2018年には、ロシア連邦院議員や大使館関係者などが戸田に訪れ、戸田港まつりへ参加した。100年以上続くロシアとの関係性は、戸田村の人々が築き上げたのだ。日本人の何割が、この事実を知っているのだろう?
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深海魚の「聖地」を巡るツアー
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