2019年末、ついに伊藤さんは重い腰を上げた。頭の片隅にあったのは、『その日暮らしの人類学』(小川さやか著)だった。タンザニアの零細商人の生き方や彼らが切り拓くインフォーマル経済の視座から、日本の社会を問うた本だ。
「その日暮らしというと日本では否定的なニュアンスで捉えられますが、実のところ、誰も明日のことなどわかりません。だったら、思い切って一歩踏み出してもいいんじゃないかって思ったんです」
その頃、仕事で燻っていたこともあり、一念発起して中央線の古書組合に「話を聞いてもらえないか」と問い合わせた。当時の広報担当者がとても親切で、懇意にしている国分寺の古書店の店主につないでもらうことができた。そこで週2回、見習いをすることに。旅行会社の2代目会長には「本屋になりたい」と正直に打ち明け、週3回勤務にしてもらった。
その古書店では、店舗とオンラインで売る、古本市で売る、東京・神田の古書会館で古本を売買するのが仕事で、稼ぎ頭は古本市だった。1年ほど修業をさせてもらいながら、毎日馬車馬のように駆け回る古書店の店主のようにエネルギッシュじゃないと食っていけないと感じた。
「僕にはできない」がまたしても頭をもたげた。面倒を見てくれた古書店の店主には申し訳なく思ったが、見習いを辞すことを申し出た。この先どうしたものか、会社に戻るのか、別の道を探すのか、選択が迫られていた矢先、手に取ったのが『本の読める場所を求めて』。下北沢で本を読んで過ごすことに特化した店 「本の読める店fuzkue(ふづくえ)」を立ち上げて軌道に乗せた阿久津隆さんの本だった。fuzkueは席料を取り、ドリンクやフードをオーダーすると席料が安くなる独特のシステムを持つ。
その本のなかで著者が「fuzkueのような店を増やしたい」と書いているのを読んで、「え、やっていいの!?」と胸が高鳴った。すぐに連絡し、具体的な話を聞いたら、光が見えた。
「お客さんに本を読む時間と空間を提供することでお金を頂戴するという仕事は画期的で、価値があると思えました。お席料を頂戴することによって、お客さんの回転数への懸念が軽減するので、これならやっていけるかもしれないと思いました」
伊藤さんは、なんのノウハウもないためできることなら「フランチャイズ」を希望していた。しかし、西荻窪で三店目のオープンを控えていたこともあり、結果的に伊藤さんは単独で動き始めた。
この時、いつも勝負所に現れ、身を引かせる「僕にはできない」は出てこなかった。例えうまくできなくても、前に進んでみようと思った。一冊の本が、伊藤さんの足かせを外したのだ。