このように青森は1945年以前の資料となる建物が極端に少ない。だから当時の町の様子を知り、調査研究するには、戦禍をかいくぐったさまざまな資料が必要になってくるわけだ。写真も当然そのひとつ。空襲を免れて青森市街周辺に残っている写真フィルムは大変貴重で重要な資料だ。
今でも町の人がさまざまな資料を持ち込んでくるだけでなく、時々相馬さんの元に「あそこにこんな資料があるらしいよ」という情報だけが人伝に入る時もある。そうすると、相馬さんは「そんだば、そこに俺を連れてけ!」といって、いろんなところに調査に出かけて行く毎日なのだ。
さてもう一度ベイエリアに戻ってきた。青森の代名詞でもあった、いまはなき青函連絡船の発着地点だ。
1908(明治41年)から北海道の函館と青森の人をつないできた青函連絡船は、青函トンネルの完成と共に1988年(昭和63年)にその役割を終えた。しかし今もその跡地には、連絡船を偲ぶさまざまなモニュメントが残っている。そのひとつがミュージアムシップとして残されている最後の運航船、八甲田丸と可動橋だ。
そして青森空襲の際には、青森と函館の連絡船が標的となり、すべて撃沈されたことも、傍の石碑が今も教えてくれている。私たちが知っている連絡船はすべて戦後に復活して作られたものなのだ。