「実は太宰が走っていただろう通りにはもう一つ見所がある」と相馬さんは続けていう。それが通りを挟んで寺の向かいにある大銀杏だ。
奏海の会でその記録を保存しているとおり、青森は終戦直前に大規模な空襲に二度見舞われ、街は灰燼に帰し、多くの市民が犠牲となった。
この取材中に私が歩いている町のなかの建物のほとんどが焼失したのだ、相馬さんは歩きながら教えてくれた。
その数少ない生き残りのひとつが、この大銀杏なのだ。炎のなかで立ち続けた大銀杏の元に人々が避難し、命を取り止めたという証言もあるという。
さらにもうひとつ、空襲で焼け残ったものを見せに相馬さんが案内してくれたのは、ここからほど近い、とある教会の壁だ。教会の建物そのものは焼けてしまって新たに立て直したものだが、レンガの壁が部分的に焼け残った。焼け落ちた部分も繋ぎ合わせて、保存しているという。
さらに町の中心部のはずれまでいくと、青森市福祉増進センターがある。ここには以前、青森市公会堂が立っていた。戦前はこの公会堂にヘレン・ケラーが講演にきたほか、文豪・芥川龍之介の講演を聞きに旧制弘前高校の学生だった太宰治が訪れたという記録も残っている。
町の中心部のはずれにあるここは、幸いにも空襲の被害をまぬがれ、公会堂も残っていたのだが、残念ながら1996年に道路拡張工事に伴い、現在はなくなってしまった。
この町で数少ない焼け残った戦前の建物がなくなってしまったことを、いまも相馬さんは嘆いている。資料となる建築物がなくなってしまっては、どんな調査も研究も、もはやできないからだ。
「だから資料は大事なんです」と相馬さんは繰り返す。
いまはわずかに敷地内に当時の縁石が残っているばかりだ。「奏海の会」では、これらの跡地をめぐる町歩きを開催したこともある。