さあ、戦前に桟橋があった今いる地点から、海を背にして町の中心側を見てみよう。
この桟橋があった地点から南に向かって町へと続く通りは、まさに文豪・太宰治が若き日に何度も通った道ではないか、と相馬さんは睨んでいる。
この通りの真っ直ぐ先に、旧制青森中学に通っていた太宰の下宿先があったからである。実際にこの桟橋まで太宰が出かけたことが、太宰の文章のなかにも残っている。
さらにこの付近の、この道にクロスしている通りには、太宰よりもう少し後の時代、青森が生んだもうひとりの天才作家、寺山修司が暮らしていた家もあった。そこから前述の青森高校に通っていたわけだ。もしかしたらあの藤巻さんも、同級生だった寺山修司や沢田教一たちとともにこの道を歩いたかもしれない。そんなことを考えるとワクワクする。
「これらのふたつの通りは青森市内の『太宰通り』『寺山通り』と言えるんじゃないかな」と相馬さんは言うのだった。
さて再び太宰の話に戻ろう。太宰は旧制中学時代、勉強のみならず体育も得意だったと伝わっている。下宿の近くの寺の空き地で陸上の練習をしていた、という記録がある。
「おそらく、このあたりでしょうね」と相馬さんは先ほどの通りの先に今でもあるそのお寺まで連れて行ってくれた。