さてこの日、私が訪れた『青森まちかど歴史の庵 奏海』は、退職後の相馬さんが活動の場としているところだ。
ここは市民から寄付された写真や絵葉書、地図、文書、生活用品などの資料を展示し、今後の青森のまちづくりに役立つことを願って、2013年(平成25年)に開設されたという。いわば私設の小さな資料館だ。「奏海の会」という市民団体が運営しており、月に1回程度メンバーが集まり定例会が行われるほか、市内に住むメンバーが中心になって、さまざまな歴史資料をアーカイブしながら、企画展示やトークイベントなどを行っている。
この庵を立ち上げたのは、元衆議院議員で、「青森空襲を記録する会」を主催してきた庵主の今村修さん。今村さんは長年、青森空襲の記録写真や証言をアーカイブし、公開する活動を続けてきた。その活動で集まった資料の保管や展示が、この「青森まちかど歴史の庵」の大元になっているのだ。公務員だったときは、眺めているだけの存在だった「青森空襲を記録する会」だったが、今村さんの活動に惹かれ、相馬さんもやがてメンバーになったのだという。現在相馬さんは「奏海の会」の会長を努めている。
「この庵が建っている場所については、面白い話があるんです」と相馬さん。
実はこの敷地に、以前は「塩谷旅館」という旅館があったそうだ。その旅館には戦前、講演に訪れた民俗学者の柳田國男が泊まったこともわかっている。また青森の代名詞でもある文豪、太宰治の兄で、その作品のなかにも度々登場し、青森県知事を務めたことでも有名な政治家・津島文治も、塩谷旅館を定宿にしていたという。さらに文治は青森空襲の日にも塩谷旅館に泊まっており、ここから逃げおおせて生き延びた、という話も残っている。実はそういう歴史秘話がつまった場所なのだ、と。
「今村さんは、青森の歴史をアーカイブしていく場所として、まさに最適な場所を見つけたんですよね」と相馬さんは語った。
また「奏海の会」メンバーが青森の歴史や自然などについて詳しいことから、市内のさまざまな専門職からコンタクトがある。国際芸術センター青森の学芸員たちがアーティストを伴ってリサーチに訪れたり、青森市民図書館歴史資料室の学芸員とも相馬さんは親しく情報を交わすと言う。
そんな「歴史の庵」には、普段から、いろいろな人たちが、さまざまな資料を持ってやってくる。この日も額に入った写真が寄贈されたところだった。おそらく街の消防団の記念写真だ。この古い写真は市内にあったということ以外は、年代も撮影場所もまだまったくわからない。
いずれこの写真も『青森太郎」のTwitterにアップされるだろう。そうすると、写真を見た4400人のフォロワーたちから、相馬さんが知らなかった思わぬ情報が寄せられ、新たなことがわかることもあるのだという。それがSNSの面白いところであり、すごいところだ、と相馬さんは言うのだった。