こうして、ひとつずつ手探りで進みながら、過去の映画作品に音声ガイドをつけるという活動を本格的に開始。2002年の調布映画祭では『風と共に去りぬ』『男はつらいよ?知床旅情』を音声ガイド付きで上映した。大きな一歩を踏み出し、その後もたくさんの映画に音声ガイドをつけ、上映会を各地で開いた。
同時に過去の作品だけではなく、いままさに劇場で公開されている作品を見に行きたいというニーズもあった。この当時、『千と千尋の神隠し』が公開され、大きな話題をさらっていた。そこで晴眼者が視覚障害者の隣に座ってペアになり、耳元で解説しながら見るという同行鑑賞会も実施した。これも好評だったが、問題もあった。
「劇場の方から他のお客様のご迷惑になるのでと言われてしまって」
そこで、やり方をスケールアップ。映写室にいれてもらい、そこから実況ガイドを実施しようと思いつく。そうすれば、上手な人の解説をその場にいる全員に届けられるというメリットもあった。問題は、どうやってひとりひとりのイヤホンにガイドを届けるかである。
「歌舞伎のイヤホンガイドは、FM電波を使ってるということがわかりました。そうか、映画館でミニFM局を開設すればいいと思いつき、電波送信機とか作ってる会社に相談に行ったら、じゃあこれを使ってと機械を貸してくれて、スタートできました」
「FMラジオを使ったシアター同行鑑賞会」好評を博し、「みんなと一緒に映画館で見られることがすごく楽しい」という声があがった。わかる気がする。映画そのものを楽しむと同時に、一緒に出かけて一緒に見るというその時間もまた楽しかったに違いない。
上映会は視覚障害者にクチコミで広がり、多い時には200人以上が参加。都内の各所の映画館にわかれて実施するほどの人気ぶりとなった。そうなると、ガイドができる人も増やす必要があり、さかんに勉強会や練習会が開かれた。記録を見ると、当時のシティ・ライツがいかに精力的に動いていたかがよくわかる。たとえば、2005年には同行鑑賞会だけでも月平均3回で合計38回、音声ガイド制作も『耳をすませば』や『誰も知らない』約20作品。各地での講座やシンポジウムにも数多く参加している。
そうこうするうちに時代も移り変わり、バリアフリーをめぐる動きも活発化し始めた。映画会社のなかには、自ら音声ガイドを制作したいというところも現れた。音声ガイドは、それまでの草の根活動から一歩進み、過渡期に入ろうとしていた。
同じ頃、平塚さんは新たな夢を見るようになった。
"いつしか、自分たちが思うようなバリアフリー映画館を持ちたい"
「だって鑑賞会では、その日を逃すともう見られない。わたしたちも、映画館の都合にも振り回されてしまう。本来は、いつでもバリアフリー上映をやっている映画館があって、映画を見たいなと思ったらふらっと行けるほうがいい。自分たちが劇場を持っちゃうのが一番いいなと思いました」
確かに……それで映画館を!
「そうそう。それでも映画館を作るっていうのははるか先の夢だと思っていたんです」