立ち上げた団体は「シティ・ライツ」(正式名称はバリアフリー映画鑑賞推進団体シティ・ライツ)と名付けられた。あの幻の上映会の映画『街の灯』から名前をとった。見えない人も見える人も、当たり前に映画の感動を共有できる場を作ることを目指した。
もうお分かりの通り、「シティ・ライツ」は現在のシネマ・チュプキの源流となる活動である。しかし、この長い物語が映画館誕生までたどり着くのはまだまだ先のことだ。
2001年、平塚さんは仲間と一緒に、既存の映画のバリアフリー化を目指して「音声ガイド研究会」を結成した。とはいえ、当時の日本には、視覚障害者用の音声ガイドはほぼ存在しなかった。改めて音声ガイドとは、映像に映っている情報を音声で補足するサービスのことで、登場人物の行動や表情や風景や環境情報などを伝えるものだ。いまでこそ、音声ガイド作りのノウハウが少しずつ蓄積されており、その方法も確立されている。しかし、当時の平塚さんたちは、まったくの手探りで未知の荒野に突き進むしかなかった。
とはいえ、一部のテレビ番組には副音声による解説もあり、またお芝居でも音声ガイドがついているものもあった。そこで色々と関連資料などを集めて、周囲の視覚障害者の人たちに「どれをお手本にしたら良いか」と聞いたところ、返ってきたのは意外な答え。
「どれもお手本にしないでって言われたのね。どれも帯に短し襷に長しだからって。テレビドラマの副音声と映画の音声ガイドはきっと違うからって」
そうして試行錯誤しながら、平塚さんたちは最初の音声ガイドを作り始めた。音声による解説のシナリオを作り、それを実際の視覚障害者の人にチェックしてもらい、必要な言葉を足したり、逆に削いだり。場面ごとに時間をかけて仕上げていく(モニターチェックは、現在でも音声ガイド作りでは欠かせない行程である)。こうして作り上げた最初の音声ガイドをさっそくお披露目しようということになった。
場所は、視覚障害者の生活訓練をする施設。失明して間もない人たちが生活訓練を受ける施設で、中途失明の人がたくさん通っていた。
そうして迎えた上映会当日、実にショッキングな反応が返ってきた。
平塚さんは、なんだか懐かしそうな笑顔でその日のことを語った。
「なんてわかりにくい、なんて不親切な音声ガイドなんだってすごい酷評を浴びましたね。聞いていてもわからないから隣にいたガイドさん(晴眼者)の話を聞きながらみたという人もいたくらいでした」
視覚障害者といってもその感覚は一様ではなく、いつ失明をしたのかによってもその感覚は異なる。当然、先天盲(先天的に視覚に障害があり、幼児期から視覚体験や記憶がない人)と、中途失明の人では、蓄積された経験や情報に違いがあり、音声ガイドに求める情報の量や種類も異なる。一般的には、中途失明の人の方が多くの情報を求める傾向にあるのだが……。
「あの頃は、全然そこまでわかってなかった。上映会の時に流したガイドは、先天盲に近い人がモニターチェックをしてくれていたんですね。その人が指針で、その人のジャッジで作ったので、情報が少ない分、中途失明の人にはとてもわかりにくかったのです。見えなくなって間もないってことは、わからないこと不安に思う気持ちも強く、むしろ情報がたくさん欲しい人たちでした」
その日、平塚さんたちが大酷評を浴びている現場にたまたまた映画制作に関わる人が居合わせていた。その人は平塚さんに、どうやってこの音声ガイドを作っているのか、と尋ねた。それまで平塚さんたちは、どんな情報が求められているかわからないので、とにかく画面に映るものを片っ端から言葉にし、それをモニターの人に聞いてもらっていた。それを聞いたその人は「それじゃダメだ」と言う。
「この映画はなぜこの構成で、なぜこの編集で、なぜこのカメラワークなのか、という基本的な映画作りもわかってないと、映画の勉強もして、まずは映画として大事なものを整理したらいいとアドバイスされて。それからですね、それまで闇雲にやっていったものが、もう少し勉強会らしくなっていきました」