漆への愛が炸裂する貝沼さんだが、生まれは会津ではなく、家業が漆器に関係していたわけでもない。さらには、特に食文化に興味や造詣が深かったわけでもなかった。
10代の頃の貝沼さんはロック少年で、ギター片手にバンド生活に勤しむ日々。さらに大学生になると、インドにドはまりし、インドと日本を行ったり来たり。
「70年代のロックをよく聞いてたんですけど、その頃のロックってインド音楽から影響を受けてるんです。だから自分も伝統音楽とか民族音楽に惹かれるようになって。日本インド学生会議という交流団体もやっていたので、大学生時代はインドに行っているか、ロックやっているかのどちらかでしたね!」
充実した大学生活のおかげで、大学は留年。5年間かけて卒業したのちに入社したのはコンサルティング会社だった。ロッカーからコンサルタントへとは、意外な展開だ。
「もともと、文化祭の実行委員やライブイベントの主催をしたりして、なにかを企画したりチームで動くのが好きだったので、それに近い仕事なのかなと思って。実態は想像していたのとは違ったんですけどね」
この会社の勤務地が会津若松で、漆器との出会いになった。
仕事内容はまちづくり関連の案件も多く、そのおかげで、多くのものづくりの現場を訪ねる機会があった。漆器の職人さんとも知り合い、工芸やアートにも興味があった貝沼さんは、「漆器ってかっこいいな!」と興味を持つようになった。
2年ほど働いたあと、25歳にして起業を決意し、自分の会社を興した。主な仕事はまちづくりや観光事業などなど多岐にわたった。さまざまなプロジェクトに携わり、社員も増え、充実した日々が続いた。さらに2011年の東日本大震災後は復興関連の事業も増え、とても忙しくなった。それだけ聞くとすべてが順調に聞こえるが、当時の貝沼さんはボロボロだったという。
「仕事が増えて、余裕をなくしてしまいました。気がついたら仕事も私生活もぜんぶがぐちゃぐちゃになってしまいました。自分が好きなことをするために起業したはずなのに、いつの間にか食っていくために、いっぱいいっぱいになったり、依頼される仕事に振り回されるようになって。自分がなにをやりたいのか軸が見えなくなりました」
ほとんどの仕事をいったん整理することに。社員もいなくなり、無一文になった上に、借金が残った。そして同時に最初の結婚生活も終わってしまった。
そんな絶望のなかで貝沼さんは、思った。あれこれやるのではなく、たったひとつの、本当に自分が惹かれるものだけを追いかけたい。
そのとき心のなかに浮かんできたのが、漆器だった。