急斜面の途中で横たわる倒木を栗田さんは指差した。10年くらい前に倒れた楓の巨木だそうだ。歳を重ねたせいか、「もしかして、自分が樹液を取り過ぎたから倒れたのだろうか?」と考えてしまうようになった。自らの成長のために蓄えておいたかもしれない、栄養分を含んだ樹液。それをタイミングよく人間に横取りされることで、楓が生きる力を奪われているのだとしたら。
下山するとメープルシロップ作りが待っている。灯油ストーブの上で半日以上かけて熱し、容器の底が焦げないように常に気を配り、アクのような泡をこまめにすくい取りながら、水分を飛ばして糖度を調整する。山からの恵みを無駄にしないよう、栗田さんは細心の注意を払う。
「メープルサップ・きさらぎふうろ」として販売する、加工されていないピュアなメープルサップを、栗田さんは小さなコップに注いでくれた。木の香りがほんのりと漂い、控えめな甘さ広が口の中に広がる。カナダ産メープルシロップの、中でも「アンバーリッチリッチテイスト」に慣れ親しんだ私は、そのあまりにも優しい味覚に戸惑った。けれどもそれは、自然が生み出す本来の甘味なのだとも直感した。
危険の多い雪山を歩き回って樹液を収穫し、さらに時間をかけて加工するのは、かなりの労力を必要とするのだろう。濃縮作業に没頭する栗田さんは、アクを取り除くためのすくい網を片手に再び語りはじめた。
「私は楓という木に魅せられたから手間をいとわずやっているけれど、傍から見たら奇人変人のたぐいですよ(笑)。むかしはもっと多くの人が山と関わって生きていました。けれども価値観や生活様式が急激に変化した結果、山で暮らす人たちのあいだでも『山をどう活かして生きていこうか?』という意識が薄れてきました。たいていの山仕事は、現代の常識からすれば、割に合わないことばかりですし」