そもそもふたりは、なぜ水戸市役所に入ったのだろうか。
少年だった須藤さんの夢は、道路などの建造物を整備するなど、ハード面で街を作る仕事、つまり「都市計画」に携わること。しかし都市計画を学べる学科は理系が多く、文系の学生だった須藤さんは志望大学を決めるのにもひと苦労したという。三浪して慶応義塾大学文学部へ入学、念願の都市社会学や都市計画を学んだ。
「都市計画」を実践するなら、それはやはり市役所に入るしかないと、父の出身地である水戸市役所に迷わず入庁した。最初の課はなんと念願通りの「都市計画課」だった。
業務上、町の人たちと関わりを持つ中で、須藤さんはよい街を作るためには、業務の枠を超えて積極的に町へ出て人々と関わっていくことの必要性を感じるようになったという。そして入って4年目に須藤さんは市役所内に自主研究会を立ち上げる。若手の職員としては異例のことだった。これが今も水戸市役所のみならず、近隣の行政職員、企業、地域の関係者も参加する「水戸市政策研究会」のはじまりだ。いまも須藤さんが代表として、活動を続けている。
さて須藤さんの後輩である深谷さんは、相当に異色な経歴の持ち主だ。茨城県内で生まれた深谷さんは、群馬県の大学でまちづくりを学び、その勉強を生かせる行政職員を志す。当時付き合っていた彼女を追って見事、静岡県内で公務員試験に合格するも、彼女の就職先から100キロも離れていたため、あっさりと入庁を蹴ってしまう。そしてその彼女が就職したまちの、となり町で会社員になることを選んだ。しかしそこからが深谷さんの苦難の始まりだった。なんとその彼女は、あっさりと深谷さんを振ってしまうのだ。
彼女のために夢だった行政職員を諦め、何の思い入れもない街で深谷さんが会社員でいつづけるには、絶望が大きすぎた。お先真っ暗な深谷さんが迷わず向かった先は、なんとあの「富士の樹海」であった。衝撃の展開である。
樹海に入った深谷さんの目的は、もちろんたった一つだったのだが、樹海は思いの外、優しかったらしい。そこかしこに自殺を思いとどまらせる看板があり、それを見た深谷さんは、元来た道を引き返してきたのだという。それから静岡で働きながら猛勉強して2年後に、晴れて水戸市役所に合格し、茨城に生還したのであった。
10歳ほど年齢が違うが、ともに学生時代から「まちづくり」がやりたかったふたりは、こうして水戸市役所で出会った。深谷さんの新人研修の講師の一人が、当時、財政課係長だった須藤さんだった。深谷さんはすぐに水戸市政策研究会に入り、以後、須藤さんの背中を追って、市役所の業務と自主的な地域活動の両方をこなしてきた。「須藤さんがすでに切り開いてくれたから、自分たち若手が町に入って地域活動がしやすかった」と深谷さんは振り返る。
そうしてふたりはこのガイドだけでなく、さまざまなプロジェクトを行ってきた。業務としての時もあれば、「政策研究会」などによる地域活動としての時もあった。ふたりが商店街の人たちと協働して、初めて水戸にコミケを招致したときは、この町に全国から来た「オタク」があふれかえり、大きな話題となった。