オオシマザクラを見ながらの日立アルプス縦走の1日もそろそろ終わりである。冨岡さんの話をみんなで聞きながら、山道を下りはじめる。
冨岡さんは日立の山々を守った、あの関右馬允にも会ったことがあるという。 戦後、小説家・新田次郎が小説の題材を探しに日立にやってきたときのこと。若い職員であった冨岡さんは、当時の天気相談所所長に、関右馬允の業績に関心を持った新田二郎を関の家まで案内するように仰せつかったからだった。
直木賞も受賞した作家、新田次郎は、実は小説家になるまで、気象庁に勤めていた。そして当時の所長も気象庁出身であり、新田とは仲の良い同僚だったのだという。新田は日立の公害問題と解決への道のり、ハイレベルな高層気象観測に興味を持ち、元同僚がいる日立にやってきた。そして関をモデルにした主人公による小説「ある街の高い煙突」が生まれ、それは新田次郎の代表作となり、昨年には映画化もされたのであった。
みんなで「冨岡さんが新田二郎を関右馬允の所まで案内しなければ、小説『ある街の高い煙突』は生まれなかったかもしれないですね?」と妙に感心してしまった。
帰りの山道の藪の中には、目をこらすと鉱山の産業遺跡ともいうべきコンクリートの残骸がひっそりと残っている。鉱山が閉山されて久しく、40年近く経つという。桜が咲き乱れるこの山の中に、かつて大きな鉱山や気象観測機能があったことなど、すでに想像しがたい。
さて天気相談所の前進である神峰山測候所には、40年間に及ぶ気象観測記録が残っていた。コンピュータも今のような計測機器もなかった時代に、人間が手と目を使って観測し、鉛筆で記録した膨大な気象観測データである。その全ては、現在、日立市郷土博物館に移管されている。「これらデータの蓄積が、現在まで日立市のインフラの整備に非常に役に立っているのですよ」と冨岡さんはいう。
2017年には冨岡さんたちはこれらの記録をまとめる作業を行った。ジオネット日立の顧問で日立のカンブリア紀の地層を発見した地質学者、田切美智雄さん(茨城大学名誉教授、日立市郷土博物館特別専門員)の発案によるものだったという。古い紙の記録を開いて、まとめるのは根気のいる作業だったが、ジオネット日立のメンバーたちもお手伝いに参加したという。これらは日立市郷土博物館の紀要となっており、私たちも博物館に行けば見ることができる。
「紀要13 神峰山測候所観測員が記したもの 観測記録の記事から 」(日立市郷土博物館、2018年、田切美智雄・冨岡啓行・神峰山測候所の会)をめくってみよう。明治から昭和26年まで、当時の煙や降灰の記録だけでなく雨、風、雪、霧、さらには雲や月や太陽のようすに至るまで、非常に細かな気象観測がまとめられている。それだけでなく地震情報や太平洋戦争末期の空襲による火災の煙の記録まである。神峰山頂から日立の街を見つめた人々が、長い間、地道に撮り続けてきた貴重な気象データだ。
探していた記述があった。
「大正14年5月5日 神社の境内の桜花満開」
そうだ、100年前から桜はこの山で咲いていたのだ。