夕方が迫る山頂に立つ。桜と街、海そして大煙突……。まさに田上さんから去年もらったメールの写真と同じ、見事な風景が眼下に広がっていた。
うわあ、きれいですねえ……!とみんなも口々に言う。あの桜の山道を縫ってここまで登ってきたのか。それはなんと美しい山道だったことだろう、と私は改めて思った。そしてこの山の美しさは、公害と戦ってきた人々の心と高い技術によって、作られた風景なのだ。
別のルートから登って、山頂で待っていてくれた天気相談所の元所長の冨岡啓行さんにお話を聞くことができた。冨岡さんもジオネット日立のメンバーだ。ジオネットの地質調査の時によく会う冨岡さんは、専門の気象だけでなく、天文学、地質学、地理など自然科学全般にとても詳しく、私にとってはレジェンドのような気象予報士さんであり、今回、山の上でそのお話を聞けることは、とても楽しみだったのである。
戦後間もない頃、小学生だった冨岡さんは学校の帰り道、毎日のように市役所に立ち寄っていたという。天気予報と気象図が貼り出されていたからだ。それを見るのが楽しみだったという冨岡さん。「当時、なぜ日立にいて遠くの地方の天気がわかるのか、子供心にも不思議でしょうがなかったです」と冨岡さんはいう。中学、高校の間に、気象図の読み書きができるほど、一人で気象の勉強を重ねた。
高校を卒業したら市役所に入って天気相談所で気象の仕事をする、と冨岡さんは決めていたという。そしてめでたく入庁したが、そこで初めて市役所に気象観測機関があるのは全国でも日立だけ、ということを知った。「市役所に天気相談所があるのが、当たり前だと思って育ちましたからねえ」と冨岡さんは言った。
当時はインターネットも携帯電話もない時代である。若手の気象予報士は、交代で神峰山の測候所まで食料を背負って登り観測した。時には1ヶ月半もの間、山頂から降りることなく観測業務についたという。「山頂は水がないので、途中の沢まで水を汲みに行って、それを両天秤に担いでまた登ったりしてね。歩いているうちに水が減ってしまうんですけどね」と当時の苦労を語ってくれた。
山頂はよく雷が落ちるので、その時は測候所の隣の避雷小屋にかけこんだという冨岡さん。「避雷小屋に入るだけではまだ危ないので、小屋の中に大きな碍子(がいし/電線と支持物との間を絶縁するための器具)を4つ並べてその上に板を敷いて、そこに立ってね」
それで雷をやり過ごしたわけですね、と私がいうと「いやいや、ただやり過ごしているわけにはいかないから、この小さな窓からすぐ目の前の雷を観測したんですよ」と冨岡さんは笑って言った。すごい! 私なら恐ろしくてとてもできない……。まさに体を張った観測業務をしていたのだ。