このような大森さんの調査によって、2010年には日立郷土博物館では、東京都写真美術館に収蔵されている写真を借用して、再びユージン・スミスの展覧会が行われたのだった。
さらに展覧会の後も、大森さんは精力的に研究を続けていく。スミスには三人の日本人アシスタントがいた。スミスはそのアシスントたちにもカメラを持たせ、スミスの指示のもと、「チーム」として膨大な撮影とプリント作業を行っていたのだ。だから、厳密に言えば、スミスとほぼ同じ構図と露出でアシスタントが撮った写真を、スミスがプリントする、あるいはスミスが撮影したフィルムを、スミスの指示でアシスタントがプリントする、というようなことも、しばしばあったようだ。
いわば日立での「スミス工房」の日本人アシスタントの一人で、それらの「工房写真」をまとめて持っていた人に、大森さんはやがてたどり着く。その写真をもとに、大森さんは日立で行われたスミスの撮影場所や撮影日を調査し、かなり詳細に特定していった。その成果は大森さんが手がけた『日立市郷土博物館 紀要9 ユージン・スミスと日立』(2015年)に詳しく書かれている。
特にこの工房写真の裏に書かれてあった番号の解読のおかげで、大体の場所や足取り、場合によっては撮影日時までもが特定できるようになった。たとえば「61-1-R〇〇〇-△」と書かれていれば、「61年に日立およびその他の工場または周辺で撮られた、〇〇〇番ロールフィルムの△番目」の写真という意味なのだそうだ。左から西暦の次の数字は、1なら日立およびその他の工場、2なら東京、4なら長崎旅行というように特定の撮影地を表しているとのことだ。
60年の時の流れは、日立市におけるスミスの痕跡をほぼ消し去っている。でも大森さんの紀要を照らし合わせながら日立の街を歩いてみると、確かにここをスミスが歩き、当時の日立を映し出したのだ、ということが実感できるのだ。