1950年代の末から日立製作所では、社をあげて巨大発電機を海外向けに輸出する事業が進行していた。その一部始終を記録し、世界に発信することを中心に、スミスの写真撮影は行われた。
海外向け発電機を作ることはもちろんだが、日立の街中にあるメイン工場から、13キロ先の日立港(現・茨城県日立港区)へと巨大な発電機を運ぶことそのものも、一大プロジェクトであった。まだ車も少なく、舗装も十分ではなかった国道6号を通って、当時の技術力を駆使して巨大な発電機が運ばれる様子は、スミスにとって高度経済成長に沸く日本の工業の底力を目の当たりにするような光景だったことだろう。
そしてその合間に、スミスは日立の町に出没して、さまざまな写真を撮った。それらは力強い工場の写真とはまた違う、町の風景と人々へ温かい眼差しが向けられた写真だ。
工場以外での撮影は、実はクライアントからは、あまりよく思われてはいなかったようだ、とさまざまな関係者たちから聞き取り調査を続けた大森さんはいう。もっと工場の最新の成果を世界にPRする写真を撮って欲しい—クライアントとしては至極当たり前の要望ではある。
しかし1945年の沖縄戦では、自ら砲弾を浴び負傷するほどに報道に命をかけてきた写真家・スミスを、その依頼の枠だけにおさめておくことは難しかったのであろう。興味の赴くままに、工場で働く工員たちの休み時間での何気ないシーンや、日立の町の庶民の生活にレンズを向けていったのだと、大森さんは言う。
もっと近代化された日立の工業そのものにフォーカスしてほしいクライアントの依頼と、自分が撮りたい「ありのままの日本」とのギャップを持て余していたスミスは、煮詰まって時々、東京や遠く長崎県まで撮影旅行に出かけることもあったらしい。そのような日立以外で撮られた写真も、『Japan ... a chapter of image』には収められている。