「日立市郷土博物館で、スミスの展覧会をみたのは1993年、大学生の時でした」
その時に初めて、写真家ユージン・スミスが日立を撮影していたことを知ったのだ、と同館の学芸員・大森潤也さんはいう。
茨城大学教育学部で美術を学んでいた大森さんは、1970年に日立市で生まれ育った。日立市といえば言わずと知れた、世界的電機メーカー「HITACHI」こと株式会社日立製作所のお膝元だ。大森さんの父も日立製作所の社員であった。日立で生まれる子どもの親は、ほとんどが日立製作所に関連する仕事をしていた時代だ。
ユージン・スミスが日立市にやってきたのは大森さんが生まれる約10年前、1961年のこと。スミスは、その当時、発展著しかった日立製作所に海外向けPR写真の制作を依頼されて来日し、作品制作に取り組んだのだった。その成果は日立製作所の海外向け広報誌『Age of tomorrow』に掲載され、さらに『Japan ... a chapter of image』の出版へと繋がったのであった。もう一冊『Hitachi Reminder』という、その名の通り、会社の中で使われる住所録として、小さな写真集も作られた。
海外への広報写真の撮影を、当時すでに世界的に有名だった写真家・スミスに依頼するという、当時の華やかなりし日本企業の心意気が伝わってくる話だ。そしてこの写真集が日本で発行されたにもかかわらず、国内にほとんど出回っていないこと、全編英語であることは、そもそも海外向けに作られたから。
いずれ自分が就職することになる博物館で、自分の生まれた街を切り取ったスミスの写真群を見て感銘を受けたという大森さん。その後、日立市郷土博物館で学芸員として勤務が始まった1996年には、東京都写真美術館でスミスの大回顧展『ユージン・スミスが見た日本 沖縄・日立・水俣』があった。それを見て、いずれ自分の手でスミスの展覧会を、日立でもう一度開きたい、と心の中で強く思ったのだという。
これが大森さんの日立でのスミスの足取りを探る、20年間におよぶ研究のはじまりだった。