わたしは宿を出て海に向かって歩きながら、担当編集者のKさんに電話をかけた。
意気揚々と「書き終えました、たった今、書きおわったんです!」と湧き上がる感動を伝える。うん、Kさんもきっと喜んでくれるはず。
しかし、Kさんは生まれながらのローキーなキャラなので「え、もう? 早いですね、それはよかったですね」という味気のない答えで、感動を共有した感は薄かった。あとから聞いたところによると「いままで、『書けた!』というお電話をもらったことがなかったのでおかしな反応になってしまった、すみません」とのことだった。どうも心の準備ができていなかったようだ。まあ、Kさんの反応は織り込み済みなので問題ない。なにしろKさんは、わたしが大きな賞を受賞したときときですら、ローキーな声で「えーと、Kです。あの受賞できました、よかったですね」と伝え、わたしを大いにずっこけさせたという過去を持つ。ちなみにそんなKさんが、わたしは好きだ。
とにかく祝わないとね、うん。
ひとりでおしゃれなピザ屋に入り、シャンパンで乾杯した。気泡があがるグラスの写真を撮り、Twitterに投稿したがおめでとうなどと言ってくれる人はいなかった。ただ柔らかく海から吹いてくる風が気持ちよかった。
とはいえ、うっとり夢心地だったのは10分ほどだ。
ここからは別のフェーズの勝負がはじまる。
推敲作業だ。
急いでピザを食べおると、コンビニで原稿をプリントアウトした。そして海辺のカフェのテラス席に座ると、修正の赤字を入れていく。文章とは不思議なもので、紙に印刷された瞬間に視点がガラリとかわり、誤字脱字やリズムの悪さ、論旨の飛躍などがはっきりと見えてくる。ほどなくしてプリントアウトは赤文字で埋まった。
いやはや、まだ道のりは長いなあ。
その日はもう夕飯は食べにいかず、コツコツと原稿を直した。
翌朝目が覚めると7時半だった。朝食を食べ、チェックアウトしながら、森さんに「おかげさまでいいものが書けました!」と報告する。
「こうやって書く人たちに利用してもらうために、この旅館を続けているようなものなんです。こちらとしても嬉しいです」と祝福してくれた。
おかげで家に戻る足取りは軽かった。