未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
182

カンヅメは奇跡を生むのか? 小津安二郎のゆかりの「茅ヶ崎館」で書いてみた

文= 川内有緒
写真= 川内有緒
未知の細道 No.182 |25 March 2021
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#7ひとりきりでの乾杯

わたしは宿を出て海に向かって歩きながら、担当編集者のKさんに電話をかけた。

意気揚々と「書き終えました、たった今、書きおわったんです!」と湧き上がる感動を伝える。うん、Kさんもきっと喜んでくれるはず。
しかし、Kさんは生まれながらのローキーなキャラなので「え、もう? 早いですね、それはよかったですね」という味気のない答えで、感動を共有した感は薄かった。あとから聞いたところによると「いままで、『書けた!』というお電話をもらったことがなかったのでおかしな反応になってしまった、すみません」とのことだった。どうも心の準備ができていなかったようだ。まあ、Kさんの反応は織り込み済みなので問題ない。なにしろKさんは、わたしが大きな賞を受賞したときときですら、ローキーな声で「えーと、Kです。あの受賞できました、よかったですね」と伝え、わたしを大いにずっこけさせたという過去を持つ。ちなみにそんなKさんが、わたしは好きだ。

とにかく祝わないとね、うん。
ひとりでおしゃれなピザ屋に入り、シャンパンで乾杯した。気泡があがるグラスの写真を撮り、Twitterに投稿したがおめでとうなどと言ってくれる人はいなかった。ただ柔らかく海から吹いてくる風が気持ちよかった。

とはいえ、うっとり夢心地だったのは10分ほどだ。
ここからは別のフェーズの勝負がはじまる。
推敲作業だ。

急いでピザを食べおると、コンビニで原稿をプリントアウトした。そして海辺のカフェのテラス席に座ると、修正の赤字を入れていく。文章とは不思議なもので、紙に印刷された瞬間に視点がガラリとかわり、誤字脱字やリズムの悪さ、論旨の飛躍などがはっきりと見えてくる。ほどなくしてプリントアウトは赤文字で埋まった。
いやはや、まだ道のりは長いなあ。
その日はもう夕飯は食べにいかず、コツコツと原稿を直した。

翌朝目が覚めると7時半だった。朝食を食べ、チェックアウトしながら、森さんに「おかげさまでいいものが書けました!」と報告する。
「こうやって書く人たちに利用してもらうために、この旅館を続けているようなものなんです。こちらとしても嬉しいです」と祝福してくれた。

おかげで家に戻る足取りは軽かった。

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未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭り」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、知られざる祭りに参加して、その様子をお伝えします。
気になるレポートがございましたら、皆さまの目で、耳で、肌で感じに出かけてみてください。
きっと、わくわくどきどきな世界への入り口が待っていると思います。