さっそく原稿を書き始める。遠くから庭の木々のざわめきや、わずかな潮騒の音が聞こえてくる。静かだった。
目標は3日間で1万5000字の原稿を書き切ること。400字詰めの原稿用紙にして37枚分で、3日間で書く量としては、多くもないが少なくもない。とはいえ、文字数の問題でもなく、これが長い本のフィナーレだと思うとけっこうなプレッシャーである。
とりあえず夕飯の前まで集中して書き続けた。電車のなかでひらめいたアイディアをざっと文字に置き換えていく。細部を整えるのは後からでいい。とにかく勢いがあるときは、その流れに乗るのみだ。
気がつけば集中していたようで、文字数は5000字まできていた。よし、休憩を兼ねて夕飯を食べにいこう。海岸まで出て、最初に目についたファミレスでご飯を食べる。こういうとき、へたに個性あふれる素敵なレストランなどには行かない方がいい。そういうことに労力を使うと、一気に疲れてしまう。
某大学の研究によると、人は一日のうちに何千回も決断を強いられていて(なにを着ようかとか、なにを食べようか、メールを送ろうか、電話をしようかなど)、1日にあまりにたくさんの決断が続くと、「ウィルパワー(意志の力)」が減り、重要なときに決断能力を発揮できなくなるのだそうだ。原稿を書くという行為は、まさにウィルパワーの連続消費である。だから他の雑多なことのために無駄遣いしないに限る。
しかし、夕食後に部屋に戻ると、なぜだかやる気が激減していた。10段階で表すと、やる気の目盛は2あたりを指していた。
しかもまだ8時だというのに眠い。
とりあえずお風呂に入ろうかと思いつつ、リラックスしすぎてそのまま寝てしまうリスクもある。ここにきてぐずぐずと迷いはじめた。少しでも原稿を書き進めてからお風呂にした方が良いだろうか。
ついには考えるのが面倒くさくなり、SNSなどを見てダラダラし始めてしまう。
はっ! やばいぞ、とあわててお風呂に入った。
お風呂は檜風呂で最高に気持ちがよかった。やっぱりカンヅメするなら旅館に限るよね、うん。
問題は、お風呂に入ったあとは、さらにやる気を喪失してしまったことだ。もはや目盛は1と0の間を指していて、脳が全力で「もう寝なさい」という指令を出している。
どうしたもんかなあ。
コーヒーでもいれるか。
いや、夜だからカフェインが少ないほうじ茶の方がいいかな……と考えている間にも残り少ないウィルパワーは着々と浪費された。
しまいには、布団に横なりながら天井のシミを見つめ、ああ、あのシミは小津監督の「カレーすき焼」の名残りだろうか、などと考え始める。カレーすき焼きとは、すき焼きにカレー粉を加えた料理で小津監督の名物料理だった。長いときは半年ほどもこの部屋に逗留した小津監督はよく自分で料理をして、客人に振る舞ったそうだ。なんとも自由で豪快な時代である。