茅ヶ崎館が映画の世界と素敵なマリーアジュを遂げたのは、昭和11年頃だった。その年、松竹の撮影所が東京から大船に移転してきて、たくさんの映画関係者がこの周辺に移り住んだ。
戦争から戻った小津監督も茅ヶ崎がたいそう気に入り、この二番の部屋に逗留しながら、脚本家とともに意見を交わし、のちの『東京物語』ほか多数の名作を生み出した。
あれからずいぶんと時が経ったわけだが、現在の日本映画シーンを牽引する是枝監督は、雑誌インタビューにてこの部屋について語っている。
「2007年だったかな、小津監督がよく使っていたという海に面した中2階の角部屋で『歩いても 歩いても』の脚本を書いたんです。そしたらこれが良くてね。海の近くで、夜はしんと静かなのだけれど、耳を澄ますと波の音が聞こえる。脚本がはかどりました。以来、作品ごとに1週間から10日くらいここに泊まり、構想を固めるようになった」
(日経ビジネスオンラインのインタビューより)
是枝監督が『万引き家族』でカンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを獲得したとき、女将さんの息子であり、五代目オーナーの森浩章さんは「本当に嬉しかった」と語る。
実は25年ほど前に森さんが先代からこの旅館を引き継いだときは、旅館に来る人はビジネスマンが中心だった。しかし、森さんが「映画監督ゆかりの宿」「物書き宿」として打ち出した結果、いまでは是枝監督の他にも、『ゆれる』や『すばらしき世界』の西川美和監督など、映画関係者が多数訪れるようになった。
さらに茅ヶ崎館は、まるごと映画の舞台にもなっている。樹木希林さんの最後の出演映画となった『命短し、恋せよ少女』(ドーリス・デリエ監督作品)は、茅ヶ崎館を全館貸しきって撮影された。
「あれは希林さんが亡くなる二ヶ月前のことでした」と女将さんは思い出す。「希林さんはお体が弱っていたので、お手洗いがある部屋に仮のベッドをしつらえて、泊まりながらの撮影になりました。普段は杖をついておいででしたが、一度撮影が始まると杖もつかずにシャキッとしていました」と女将さんが話してくれる。
そんな希林さんが演じたのは、まさに物語の舞台「茅ヶ崎館」の女将役だった。