祖父を亡くし、日本にいる理由がなくなったマリオさんは、一度、ブラジルに帰国した。ところが、かつての同級生たちは就職していたり、結婚していたり、マリオさんとまったく違う生活を送っていて、浦島太郎のような気分になった。それならまた日本で働こうと、再び大泉町に戻ってきたのだ。
大泉町では、住宅メーカーや電機メーカーの工場で働いた後、人材派遣会社に移った。そこで5年働いてからブラジルの新聞社、ブラジル銀行と渡り歩き、2003年に起業。大泉町でフリーペーパーを発行しながら、別会社も立ち上げて、ブラジル関連のイベント企画を始めた。イベントを通して、ブラジルと日本の架け橋になろうと考えてのことだった。
リーマンショックでフリーペーパーの会社は畳んだが、イベントの企画だけは続けつつ、再び人材派遣会社で勤務。2年前に転職し、現在は不動産会社で住宅の販売をしながら、日系ブラジル人が住宅を購入する際のサポートをしている。
製造業の工員をしている人がほとんどの日系ブラジル人社会で、幕田さんは非常に稀な存在だ。顔が広く、日本人の友人も多い。プライベートでもたくさんの人の相談に乗っている。
すっかり日本の生活に溶け込んでいる幕田さんだが、日本で働き始めた頃は差別に苦しんだ。ブラジルに住んでいた18年間、両親は日本人だったから、家では日本語を話し、日本食を食べた。自分は日本人だと思っていたのに、日本の職場では「ガイジンさん」と呼ばれるのだ。当時の話を聞くと、つらそうな表情を見せた。
「あれは本当に悔しかったね。日本人は、日本の移民の歴史を知らないでしょう。日本には食べ物もなく、仕事もなかったから移民したんです。その子どもたちが日本に帰ってきたら、ガイジンと言われるのはショックですよ。両親に電話した時、大丈夫? なにか困ってることはない? と聞かれて、いつも大丈夫って言ってたけどね、けっこう泣きました」