ここから先は、地元の人でも知る人は少ない。
すべての台輪が去って数時間が経ち、終電もなくなり、屋台の片付けも終わるころ。観光客はおろか、地元の人もほとんどいない諏訪神社で、静かにそれははじまった。
神輿の前に集まっているのは「職人町」と書かれた法被を着た男たち。その中には、友哉さんの姿もあった。職人町は、「第7の町」というより、「第0の町」というべき町で、祭りを取り仕切る町。祭りが行われる3日間はひたすら町内を練り歩いているのだが、「職人町の神輿が通るときは、ケンカ台輪も道をあける」と言われるほどだ。
新発田まつりは27日からと言われているが、実は26日の夜、諏訪神社の本殿から職人町の神輿へと分霊を移す儀式が行われる。神様にお神輿に乗っていただき、それを担いで町内を練り歩くことで、「新発田の今」を見ていただくというわけだ。そして、祭りが終わろうとしている今、神輿から本殿へと神様をお返しする「還御式」が行われようとしているのだった
。薪がパチパチと燃える音が聞こえるほど静かな夜。そこに、職人町の男たちが歌う「木遣り」が響き渡る。
ヨーエッサ ヨイヤラセ
セーノ ヤレコラセ ドッコイ
セーノセー コレワイサ ヨー ヤーレー
木遣りの歌が、静謐な空気に溶けていくような神聖さがある。そして、男たちは神輿を担いで歩き出す。
社殿のまわりをぐるりと1周してきた男たちは、その場でもう一度、木遣りを歌う。そうして、気合を入れ直した男たちは2周目に入る。それが、なんと何時間も続くのである。
そろそろ終わりか? そう思ったら、もう1周。つぎで終わりか? そう思っても、もう1周。しまいには、神輿を担いで神職が待つ社殿の方へと入っていく。今度こそ終わりか、と思ったら、やっぱりもう1周。
神輿を納めると祭りが終わる。「嫌だ、まだ終わりたくない」その気持ちの表れなのだという。2時間経っても、神輿を一度も下ろさない。休憩と言える休憩もない。男たちは神輿を通してひとつになり、トランス状態に入っている。ケンカ台輪の情熱的な熱とは対照的に、静かに燃ゆる熱がある。
見ているだけでもトランスしそうな長い長い時間が流れ、ようやく神輿を社殿前に奉める。そして、職人町の男たちの半分は太鼓を叩きながら町内へと帰っていく。しかし、まだ終わりではない。残った男たちが見守る中、諏訪神社の神職が勤める神事がはじまる。
白いヴェールを手に神輿に近づいていく神職たち。しばし、神輿はその神秘に覆われる。隠されたヴェールの中で何かが行われ、神職は本殿へと戻っていく。これは人間が目にしてはいけない神事であり、「祭り」ではなく「祀り」なのだ。これが、ケンカ台輪より長く受け継がれてきた本当の祭りの終わりである。
神様を社殿に移す神聖な儀式が終わると、「見学される方は中へどうぞ」と声をかけてくれる。靴を脱ぎ、社殿に入って正座をすると、供物を捧げ、雅楽を奏で、巫女が舞う儀式がはじまった。ぼくは不思議だった。その儀式に、なぜか「懐かしさ」を覚えたからだ。
初めて見たはずなのに、「地元に帰ってきた」と感じる風景にとてもよく似ている。しばらく使っていなかった細胞が次々と目を覚まし、全身が呼応していくような、あの感覚がある。それは、ぼくが生まれる以前から、遠い先祖が積み上げてきた遺伝子レベルでの記憶かもしれない。
ぼくの先祖が新発田と縁があるかと言えば、詳しいことは分からない。しかし、「諏訪神社」の総本社は長野にある。ぼくの「志賀」という名字は長野県安曇野市と関わりが深いとも言われている。そのような理屈はともかくとして、枝分かれしていった道を辿っていくと、ひとつの幹に辿り着くように、元を辿れば、誰もが同じ根っこを、原初の日本人としての記憶を持ち合わせているはずなのである。
これが新発田ではなく、地元の祭りだったらどうだろう。それに参加すれば、より自分に近い記憶から遡っていくことができる。地元に根ざす、神輿を担ぐとは、こうした記憶の根っこに触れること。それは、遠い祖先に、そして日本人としてのデータベースにアクセスすることに辿り着く。
地元を深堀りしていく中にも旅はあるのだ。その「入口」であること。それこそが、祭りの本当の役割なのかもしれない。遺跡でも書物でもなく、祭りこそが最も長く人が受け継いできた、現存する「体験できる遺産」なのだから。
ライター 志賀章人(しがあきひと)