「まるおか」での修行を終えて2004年に山形に戻った英則さんが直面したのは、大手流通企業グループが経営するスーパーや、大型チェーン店の出店ラッシュだった。
当時の「エンドー」で扱っていた商品はナショナルブランド。同じ商品を扱うなら、大量仕入れ・大量販売ができる大手スーパーの方が強い。「エンドー」のような小売店は価格で対抗できず、お客さんは大手に流れ始めていた。
英則さんは「まるおか」での経験を活かそうと、陳列棚のレイアウトを変えたり、商品の見せ方を工夫したりしたが、目に見える成果には繋がらない。「エンドー」と「まるおか」では立地も地域性も異なる。地方都市山形には、高級志向や健康志向はまだ根付いていなかった。
「そんなに簡単に売れるわけがないですよね」
やっぱり自分には何かが足りないと思った英則さんは、1年ほど店の手伝いをした後、今度は東京に出た。群馬時代に近所のパン専門店を食べ歩いてパンが大好きになったことで、パン作りに挑戦したくなったからだ。しかし、缶詰め状態であまり人と接することがなかったパン工場での生活は性に合わず、1年足らずで転職。飲食店などで仕事をするうちに、「やっぱり人と関われる仕事の方が楽しい、自分には合っている」と山形に戻ってきた。29歳のときだった。
2009年、売上が落ち込む一方の「エンドー」は、49坪ある店舗スペースの半分を閉めて営業していた。地域の保育園や学校給食という固定の卸先のおかげでなんとか赤字にならずに経営はできていたが、来店するお客さんは近所のおばあちゃんたちか、車がない人たちばかり。ご両親は「もう店を畳もうか」と口にした。
Yahoo!ショッピングや楽天市場などのネットショッピングが盛んだったこともあり、英則さんは新規事業として山形産の果物をインターネット販売してみた。だが、通常の店舗業務が終わってから商品を発送したり、お客さんにメールを返信したり、ホームページに新しい商品をアップしたりするのは予想以上に大変だった。寝る間を惜しまないとひとりで回すことは不可能で、「たぶんこれは続かない商売だ」「来客がゼロなわけじゃないなら、お客さんに集中しよう」とすぐに方針を切り替えた。
少ないとはいえ日々お客さんは来るので、毎日市場に行く。「これが欲しいんだけど仕入れて来てくれないか」と言われて、オーダーメードでお店に商品を揃えることもあった。ただ、客層は何年も変わらない。「あと10年先はこの街はもしかしたら誰もいなくなるかもしれない」という不安が何度も頭をよぎったものの、お客さんと日々接していると、閉店しようとは思えなかった。
スーパーの1年の流れを見ると、季節によって食材の流れが違う。たとえば、山形の風物詩になっている「いも煮会」の時期は、さといもやネギ、こんにゃくがよく売れる。逆に、寒さが厳しい山形は、冬場は果物を含めて旬のものが少なくなる。先を見据えたときに、通年変わらず売れるものが見つけられれば次につながるかもしれない、と考え始めたのもこの頃だ。
「とにかく考える時期でしたね。なにかお客さんを呼べるものはないか、常々アンテナを張っていました」
英則さんが「げそ天」にたどり着いたのは2009年に後を継いで7年後の2016年だった。