石川、富山、茨城の3ヶ所を内見したクリスさんは、北茨城を一目で気に入り、すぐに2軒の購入に踏み切った。一軒を自分たちの住まいに、もう一軒をホステルにしようという計画だった。しかし前の住人の家財道具が散乱している家を見た麻未さんは「本当にここを買うの?」と驚いた。
そんな麻未さんの心配をよそに、クリスさんはピンときたらしかった。バンコクの時のように、クリスさんは決断した。過疎地域の中古物件でも2軒購入すれば高級車1台分くらいの値段になる。決して安い買い物ではない。「わたしは冒険者だからねえ!」とウィンクするクリスさん。
こうして一家の宿作りが始まった。クリスさんが中心になって、車で何十往復もして粗大ゴミを出し、壁紙を貼るなどして家を改修。自分たちでできることはなんでもやった。一方で地域が主催するスモールビジネスのプランを支援するコンぺには落選してしまった。理由は「市の観光名所や特産物などを充分に活かせていない」から。
しかしクリスさんが見つめていたのは、そこに暮らす人たちが思い描きやすい地域の魅力とは、少し違っていた。すぐ近くにある海とこの家こそ、クリスさんが考えていたチャンスだった。ビーチとしてはほとんど観光地化されておらず、ひと気もない、だからこそ手付かずの自然が残っている静かで美しい海に、たった徒歩3分でアクセスできる。
加えて、ごくふつうの民家で、ふつうの日本の田舎暮らしを体験できる。それは人々が大挙して押し寄せる人気観光地や豪華なホテルでは味わえない、特別な体験だ。そしてそれこそが、そこに暮らす人たちには当たり前すぎて、その魅力に気づけない、とびきりの地域資源なのだ。
期待した支援はなく、初期投資には相応のお金がかかったが、麻未さんも「乗った船からは降りられないし」と開業に向けてに邁進した。そしてホームページもないまま、2023年1月に、「エルム・オン・ザ・ビーチ」は簡易宿泊所としてついにオープンしたのである。
1階にはリビングキッチンとバスルームと洗濯機乾燥機を、2階にはべッドルームを完備。ビーチまで徒歩3分、自転車やサーフボードも借りられる。6人まで宿泊可能で、そのうえバーベキューができる小さな庭もついた家をまるまる一棟貸しするこの宿に、英語の予約サイトを通して、だんだんと外国人が予約するようになっていった。
「アメリカ、ヨーロッパ、タイ、中国、メキシコ……ほんとうにいろいろな国の人がやってくるよ」とクリスさん。彼らは皆、観光地では得られない本当の日本を体験したくて、この北茨城までやってくる。またサービス精神旺盛なクリスさん一家は、時には宿泊客と食事をすることも多い。英語ができる蕾羅くんを筆頭に、子どもたちも宿泊客と自然に交流する。この日も蕾羅くんが、外国人宿泊客と楽しそうにチェスに熱中していた。そして「昨日の宿泊客からはバーベキューに誘われて、いっしょに食べたよ!」というクリスさん。