しかし、私にはもうひとつの疑問があった。冷涼な気候から茶の生産に適さない富山県の山間部で、なぜ黒茶が愛飲されてきたのだろう? 平木さんはこう説明してくれた。
「黒茶がどこから来たのか、わかっていません。先人たちは自ら飲むため茶の木を育てたんじゃないかと思います。茶葉を作る過程で何らかの理由で発酵してしまったりと、偶然から生まれたのかもしれません」
日本茶の研究と育成に貢献した大石貞夫(故人)が著した「日本茶業発達史」には、黒茶が「おそらく昔は富山で作られていたと考えられる」とあり、さらに、「この地の気候下では茶の栽培に適さず」ということから福井県の美浜町に製茶を委託するようになった。しかし福井県で黒茶が作られなくなると、その製法を伝授された萩原氏という富山県西部の茶農家が黒茶生産を引き継いだ。
一方、朝日町では蛭谷固有の文化を守るのと並行して、地域おこしのためバタバタ茶をアピールしていた。ところが「町で製造をしていないのに『特産品』と言えるのか?」との声が上がり、1990年頃から町独自でお茶づくりに取り組んでいた。しかしノウハウに乏しく、なかなか成功しない。2000年頃、朝日町商工会は茶農家を辞める決心をした萩原氏から、製造を引き継ぐように頼まれた。そこで平木さんを始めとするメンバーは農機具を譲り受け、3年かけて黒茶づくりの技術を伝授してもらい、さらなる試行錯誤を経て、朝日町産のバタバタ茶を誕生させた。
実はこのバタバタ茶伝承館は、茶の製造のために作られた工場としても機能している。茶を楽しむ人々が集う居間は建物のごく一部で、広々とした隣室には様々な農機具や茶葉の発酵を促す室(むろ)が置かれている。
黒茶の茶葉は、緑茶と同じ茶の木から収穫する。けれども「発酵しにくい」という理由から春に新芽は摘むことはせず、大きく育った茶葉を7月下旬から8月上旬に刈り込む。加工しやすいように裁断し、蒸し器で蒸らした後、室に入れる。室を分解して茶葉を詰め直す「切り返し」を何度か行い、およそ40日かけて発酵させる。さらに数日乾燥させるとバタバタ茶になる。