「きゅうり、太ってるかな」
「あと少しでなすの漬物だらけになるな」
「足が痛い」
「あそこの病院がいい」
「何言っとるんやあんたー」
「えーじゃないか」
みんなが世間話に花を咲かせている。この日の午前中にバタバタ茶を楽しみに集まったのは7人。蛭谷から3人、残り3人は隣町から来たということだが、うちふたりは蛭谷から嫁いだ女性たち。そしてひとり、蛭谷の茶会を見守る人がいた。朝日町商工会に所属し、一度は廃れかけた茶の湯を存続させるべく奔走した、平木利明さんだ。
平木さんがバタバタ茶と関わるようになったのは、1980年代の終り、時代が平成に変わる頃だったそうだ。当時の蛭谷では1日に3度、1戸ずつを回り、戸を開けては「火は大丈夫かい?」と声をかけ合っていた。そうすることで彼らは常にお互いの状態を把握し、支え合っていた。同じ朝日町出身ながら海に近い場所で生まれ育った平木さんは、中世の山村のような濃密な関係性を保つ集落があることを知り、驚きながらも感銘を受けた。
しかしなぜ、それほどまでに深いつながりが生まれたのか。そこで浮かび上がったのが、独特の茶会の存在だった。調べてみると、室町時代から続けられてきたことがわかった。
平木さんは蛭谷を取り巻く特殊な事情を私に説明してくれた。
「どんな田舎でも最低ひとつはあるであろう寺が、この集落にはなかった。そのため、月命日ごとに行うお講を自分たちでやっていた。場所は各々の家。そこに親族や近隣を呼び集め、お茶を飲みながら先祖を忍び未来を語り合ってきたのでしょう」
平木さんが蛭谷の人々と関わりを持つようになった当時、集落には100戸ほどが軒を連ねていた。つまり月命日のお講は最低でも月に100回は行われる計算になり、1日あたり3軒以上が茶会を開いていたことになる。室町時代から途絶えることなく、この小さな山村のそこかしこで日常的に茶会が開かれてきたというのは、驚異的なことだ。
しかし近年になり、茶会は失われようとしていた。時代の急激な変化によって、人々の価値観が変わり始めたのだ。平木さんの話を受けて、おばあちゃんたちが私に話してくれた。
「月命日が近くなると家中を掃除して、10人、20人と呼んで茶請けを用意して、終わってから後片付けして。よう600年も続いたわー」
「誰も自分とこの家でやりたいとは思わない。呼ばれて行くならいい(笑)」
「7、8年前まではやってたが、もうほとんどやってない」
「普段は茶をバタバタと点てたりはしない。緑茶を飲む」
家庭での労働に従事していた女性たちが社会に進出し、自由に自分の意見を述べる時代になった。蛭谷の女性たちは、自らの負担が大きい茶会に対して「ノー」と意思を示した。そして核家族化と過疎化が進んだことで集落から人は減り、さらに各世帯とも「超」のつく高齢化が進んだことから、全国的にも珍しい喫食習慣は失われようとしていた。
そこで朝日町は、蛭谷の文化の根幹を成す風習を保護すべく、仏事とは切り離した形で茶会が存続できる場所を地元の人々に提供した。それがこのバタバタ茶伝承館なのだ。
ここでは冬期を除いた週4日、白い湯気を立てた茶釜を囲む地元の人たちの姿を見ることができる。話好きな人が集う茶会なだけに、しきたりや作法は一切ない。それゆえ、蛭谷を訪れた人は気軽に彼らの輪に加われるのだ。