未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
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鳥瞰図絵師が愛した風景 八戸に生きる人々と吉田初三郎

文= 松本美枝子
写真= 松本美枝子
未知の細道 No.219 |11 October 2022
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#4竜宮城のあと

潮観荘跡地から海を臨む。手前には瓢箪池の跡が残る。

初三郎は全国を渡り歩き、たくさんの弟子を抱え、1800点もの鳥瞰図を制作した。初三郎が八戸市に依頼されて初めて八戸に訪れたのは1932年(昭和7年)のこと。そこですっかり種差海岸に魅了された初三郎は、その年の秋から三年をかけて、種差海岸の高台に住居とアトリエを新たに構え、当時アトリエがあった愛知県から家族や弟子たちと共に移り住んだという。そしてこの別荘は「潮観荘」と名付けられ、先ほどの写真の通り、内外の人が集まる八戸の社交場となったのだ。

初三郎の足取りを追うようになってから、柳沢さんは、初三郎が住んでいた当時の様子を知る古老たちから聞き取りも行ってきた。「小学生の頃に訪れたことがある女性は、『ガラス張りの建物をみて、竜宮城とはこのような場所か、と思うほど豪華な建物だった』と語っていました」と柳沢さん。

潮観荘は、昭和28年(1953)まで存在したが、火災により全消失。柳沢商店から歩いてすぐの、丘の上の跡地まで歩いてみることにした。

潮観荘の地下室跡。

しかし、そこにはほんのわずかな礎石しか残っていなかった。
柳沢さんが「地下室の跡ですよ」と教えてくれた一角と池の跡が、唯一別荘らしい風情をわずかに残すばかりだ。跡地から見える景色も、当時の写真と比べると小さかった松が巨木となり、住宅も建ち、当時はもっと間近に見えただろう海までの眺めを遮っている。70年以上の時の流れを感じさせた。

松の木の奥に潮観荘があった。当時は現在の道路はなく、天然芝生地が今よりも広く壮観だったという。

当時4歳だった柳沢さんは、初三郎のことはまったく覚えていないそうだが、潮観荘の火事の日のこと、特に初三郎の愛犬マモが鳴くようすをいまも覚えているという。それから二年後、初三郎は療養先の京都で没した。

さて種差海岸での初三郎の足取りを辿ることができた私は、柳沢さんに別れを告げ、八戸の街中へ戻ることにした。

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未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
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