その阿佐ヶ谷住宅こそ、江口さんがエディブルウェイに至るまでの道のりで、もうひとつ欠かすことができないものだ。建築家の津端修一さんが1958年に建築し、2013年に解体されるまでの55年間を多くの人がここで暮らした。江口さんもそのうちのひとりで、2006年に内見に行った時、阿佐ヶ谷住宅に惚れ込んで、再開発のために解体することが決まっていたにもかかわらず入居した。
「解体が決まっていたのでダメ元で見に行ってみたら、たまたま入った不動産屋さんで空きがあったんです。倉庫にしてもいいって言われたくらいの古い場所だったんですけど、すぐに住みます! と伝えて。解体が計画より遅れたこともあって、6年間は阿佐ヶ谷住宅に住めました」
江口さんを魅了したのは、阿佐ヶ谷住宅の「えたいの知れない緑の空間」。住人から「コモン」と呼ばれていたこのスペースはコンクリートで覆われておらず、住人たちが好きなように園芸を楽しめる共同の庭のような存在だった。
「植えられた樹木に実がなればみんなで収穫して食べ、梅酒やジャムにしてお裾分けすることもありました。ロシアで見た森と共存する暮らしに近いものもありましたし、植物を介して団地の人たちと交流が生まれていたのも居心地がよかった」
特にコモンのありがたさを感じたのが、2011年の東日本大震災だと振り返る。物流が止まり、スーパーやコンビニから物が消えた時、江口さんを襲ったのが「このままだと死ぬ!」という恐怖感だった。
「どのお店もガラガラで食べ物もなにもなく、改めて都市の生活ってなにがどこから来ているのかわからないなって思いました。コンセントに電源をつなげば電気がきて、水道をひねれば水が出ることは、当たり前じゃないんだって衝撃だったんです。当時は、どうすれば死なないだろうって真剣に考えていました」
震災を経て、江口さんは以前にも増して家庭菜園で野菜を育てることに興味を持つようになった。自分で食べ物が作り出せることが不安を和らげるのでは、と考えるようになったからだ。「将来は羊を飼って、羊肉を食べながら、羊毛で服を作って暮らしたい」と笑う。
「自分で育てている限りは絶対に飢え死にしないって思えたら、心に余裕があると思うんです。それこそ、ダーチャでソ連崩壊を人々が乗り越えられたように」
また同じ頃、近所の人たちとの会話にも安心感を覚えた。食べ物やティッシュを分けてもらったり、近所の病院を紹介してもらったり、ご近所さんの存在の大きさを感じたという。この時から、江口さんのなかで「食べ物を自分たちで育てること」と「人とつながりながら暮らすこと」が、豊かな生活の軸になっていった。