プラヴィーンさんにお礼を言って、最初の目的地であるインド料理店「スパイスマジック カルカッタ」に向かった。私はここで、リトルインドを語る上で欠かせない人物と待ち合わせをしていた。
ジャグモハン・チャンドラニさん。西葛西に40年も住む、リトルインドの父のような存在。
生まれて一度も剃ったことがないという真っ白な髭が印象的だ。こちらの目をまっすぐ見て、西葛西のこと、インドと日本のことを教えてくれた。
「小さいときから自立できるように育てられたので、日本に行ってと言われたときも『わかりました』と。特に抵抗はなかったですね」
1978年、当時26歳だった彼は父親の貿易会社を手伝うため、インド、カルカッタから日本にやってきた。拠点に西葛西を選んだのは輸送のために港や倉庫が近いという理由からだ。
「当時は駅もまだなくて、人口も多くありませんでした。この辺は昔、海苔とか蓮根とかを作っていたんです。埋め立てる前だから、今よりずっと海が近かった」
その頃はまだインド人も少なかった。変化が起きたのは1998年頃。世界中が2000年問題でITエンジニアを必要としていたときだ。日本も例外ではなく、特に大きな証券会社や企業は多くのインド人を受け入れた。
「街を歩いているとインド人をよく見かけるようになって、自然と話をするようになったね」
聞けば彼らはホテル暮らしが辛いという。一番の問題は食事。宗教の理由などでベジタリアンが多いインド人にとって、ホテルやレストランで食べられるものはほとんどなかった。
彼らの多くは大手町などの企業に勤めていた。「家を借りて自炊がしたい」と願う彼らが、会社に通いやすく、家賃も手ごろな街、それが偶然にもチャンドラニさんがいる西葛西だったのだ。しかし、あまり馴染みがなく、背景のわからない彼らに、部屋を貸してくれるところはなかった。
「話を聞こうと、困っているインド人に声をかけたら30人以上も集まった。私に何かできることはないかと考えて、彼らに部屋を貸してほしいと不動産屋に交渉したんです」
何年もこの土地でビジネスをやってきたチャンドラニさんが間に入ることで、彼らは無事に部屋を借りることができた。しかしここで、思いもよらない問題が発生する。
「みんな若い独身男性か、単身赴任でしょ。だーれも料理ができないの」
せっかく部屋を借りたのに、自炊できないとは! 話を聞きながら思わず笑ってしまった。チャンドラニさんも笑いながら話を続ける。
「じゃあしょうがないから、食堂でもやろうかって。それが実はここなんです」
え、このレストランが元食堂?
「最初は夜だけ料理人をつけて、チケットを持ったインド人たちが仕事終わりに食べにくる場所だった」
インド人たちが食材を気にせず、祖国の料理を食べられる場所。外食に疲れた彼らが、心置きなく仲間たちと食事ができると知れば、もちろんインド人たちが集まってくる。そんな食堂がだんだんと周りの日本人たちの目にも止まり始める。
「インド人が出入りしてるし、いい匂いもする。ここは何をしているのって日本人の人に聞かれてね。インド料理を作ってるって言ったら食べてみたい!って」
そういうわけで、チャンドラニさんの食堂は誰でも受け入れるレストランになった。その後、西葛西に住む若いインド人が故郷から呼び寄せた奥さんたちのためにインドのテレビ番組を受信したり、料理ができるようにインド食材の店を作った。子どもたちがインドの教育を受けられるようにインド人学校を作ったのもチャンドラニさんだ。
現在、西葛西にあるインド人学校は二校あり1,600人ほどが通っている。そのうち30%は日本人の子どもたちだ。授業はすべて英語でインド式。高校まで卒業すれば、そのまま海外の大学に行かれるような英語力はついてくるという。欧米系のインターナショナルスクールに比べて学費が安いこともあり、日本人からも入学の問い合わせが絶えないそうだ。
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ウィルソン麻菜