最後に時計を見たのは2時だった。苦しみの末にも眠りはある。目が覚めたときには、絶食して100時間を超えていた。宿便が見たくて断食に参加した僕だったが、むしろ便秘になった。便からも栄養をしぼりとろうと出し惜しみしているのだろう。
実は、この朝を待ちわびた理由はもうひとつある。3泊4日以上の断食者には、回復食として「重湯」が振舞われるからだ。断食は2泊3日から参加できるが、多くの人が3泊4日を選ぶのはそれが目当て。最後の護摩を心を込めて祈り終えると、はやる気持ちを抑えて主の部屋にお邪魔する。すでに食事は用意されていた。
重湯は「お粥」というより「おか湯」である。ちゃぷちゃぷのお湯にお米が沈んでいて、つけあわせは焼き味噌と梅干しだった。その前に、お茶が、うますぎる! 苦味の奥の甘みにちゃんと舌が届くし、何よりあったかい。蛇口から出る井戸水は冷たくて、なかなかノドを通らなかったものだ。それも今や昔と言えるほどの幸福感が満ちあふれていく。
重湯に口をつけるだけでも、お米の香りがちゃんとする。米粒をすくって食べてみると、お米という穀物のイガっとした旨みまで感じられてすごくおいしい。焼き味噌は驚くほど塩辛く、ひと舐めするだけで充分に重湯のおかずになる。「われわれの食生活は塩分を摂りすぎている」何度言われても分からなかったが、断食すると実感できた。
食べ終わったあとも驚きだった。たったお茶碗一杯の、ほとんどが水分の重湯なのに、お腹がいっぱいなのだ。胃が小さくなるとはこういうことか。それでも、頭に血がのぼっていくような熱を感じる。昨日まではいくら頭が澄んでいても、冷えた頭では複雑な思考などできそうもない虚無感があった。でも、今は違う。
食べるってすごい。人間の身体ってすごい。ケータイを充電するよりはるかに速く満ちていく。脳を最優先に省エネモードで運用していた身体機能が、次々と息を吹き返していく実感。それが嬉しくてたまらない。気持ちの問題もあるにせよ、食後に境内を歩いてみると、階段もぐんぐん上れるし身体も軽い。ちなみに体重は4kgも減っていた。
最後に、お世話になった主に挨拶をする。卒堂となる断食者が声を揃えて感謝を告げると。
「……次は、6泊7日で来るといいよ」
厳しかった主に、笑顔でそう言われると、嬉しさも感極まる。が、6泊7日はとてもじゃないが無理である。明日までもう1泊と言われても脱走する自信がある。長く厳しくはあったが、新勝寺の断食修行は、ソーシャル断食にもなる、ダイエットにもなる、禁煙にもなる、早起きにもなる。何より自分に身体があることを思い出させてくれる。そして、もっと大切にしようと思い直させてくれる。そんな有り難い体験ができる場所だと思うのだった。
奇しくも寺に足を踏み入れた時間と同じ午前9時。4日ぶりに新勝寺の外へ出ると、4日前と同じように鰻の下ごしらえをする職人たちの姿があった。別世界に思えるのではないか、という期待とは裏腹に、時間が止まっていたのではないかと疑いたくなってくる。
足を止めて美味しそうな鰻を眺めていると、お茶碗一杯で満足だと思っていた食欲もなんだか少し湧いてきた。しかし、確かに僕は学んだのだ。心頭滅却すれば腹減りもまた涼し。重湯と梅干しと少量の味噌さえあれば、充分幸せになれるのだと。そう、家に帰るまでが断食であり、家に帰ってからが本当のはじまりなのだと。
このあと滅茶苦茶カラアゲ食べた。
ライター 志賀章人(しがあきひと)