1983年に氷見市で生まれた池田さんは、「ここは埋め立て地で、昔は海だったんですよ。昔はこの辺でよく、釣りをしていました」と教えてくれた。今は観光客が訪れる人気の道の駅になっている。
池田さんは長男で、旅館を経営している両親のもとで育った。釣り三昧の学生時代を過ごした後、氷見市内の建設業で勤めたが、「体力的に続かない」と思い断念。将来を考えて、働くならやりたいことがしたいと思い、浮かんだのが「料理」だったという。
「実家が旅館をやっているから、両親がいつもお客さんに料理を作っている姿を見ていました。その影響を受けていると思います」
ハローワークに行って、まずは大きな会社で料理の修業を始めた。基礎的なことは教えてもらったが、料理というよりも流れ作業のような仕事が多く、「あれ、違うな?」と感じ、小さな割烹料理屋さんへ移った。23歳の池田さんの頭にあったのは、独立することだった。
「30歳になったらお店をだそうと決めていました。7年修行をした後に、そろそろ独立しようかな、と思って料理屋の居抜きを探していた時、氷見商工会議所の方から『閉館する旅館があるんだけど、見に行ってみる?』と誘ってもらったんです」
そこは、海沿いの一軒家。昭和30年代に創業した歴史ある旅館だった。来客も多く、趣があり内装もきれいで、「いいな」と思った。 旅館の経営者から客層や旅館経営について細かく説明してもらうと、自分でも、できそうな気がした。将来の展望はあったのだろうか。
「展望はないです(笑)。そうじゃないとなかなか動けないじゃないですか。後先までずっと計算してると、ネガティブなことばかり出てくる。失敗したらどうしようとか。そうすると始められないですから」
2013年、30歳の時、思い切って旅館を経営することにした。根拠はないが、なんとなく大丈夫だろう、と思っていた。
「当時は資金もなくて」と池田さんがいう。「前のオーナーさんに経営の仕方を教えてもらって最初は賃貸でスタートしました」
言われた通りに経営を始めてみたものの、毎日のようにトラブルが発生した。料理屋で働いていた時は1食分の料理だけ作ればよかったのが、旅館となると違う。
朝食を作り、片付けをする。急いで客間に行き、布団の上げ下げをし、掃除をする。終わるとすぐにお風呂の用意をしなければならない。15時に来客を迎え、夕食を作り、片付けをする。それだけではない。ろ過器やボイラーの点検、事務仕事など、多岐にわたる作業があった。
初めの1カ月は、前の経営者に引き継ぎしてもらいながら、ほぼひとりでこなした。
「寝る時間もなくて、死にそうになりました。これは無理だと思い、妻に手伝ってもらって従業員を雇いました。妻は、一番下の子が生まれたばかりだったので、おんぶしながら接客をしていましたね」
当時の宿は、企業の忘年会や地元の寄り合いで宴会をする場所として使われることが多かった。ある日、団体客の隣に夫婦客を泊まらせてしまい、夫婦客から怒られた。「自分の甘さに気づいた」池田さんは、とにかくお客様の声を聞くようにした。
居心地のいい場所を提供できるように、おもてなし第一の経営を模索。来館した客が一息つけるようにお茶菓子を出すなど、サービスの改善に努めた。