それにしてもなぜ、愛川町に金キラ金のラオスのお寺が築かれたのか?
歴史は1975年に遡る。当時ラオスは、ベトナム戦争の影響を受け12月に王政を廃止。ラオス人民民主共和国が樹立され、社会主義体制に移行した。旧政権の関係者や新体制に反対する人々は、迫害を恐れ次々にタイへと避難。その後日本、アメリカ、オーストラリア、カナダなどの国々へと移住し、日本における難民の受け入れは2005年まで続いた。
この時、ベトナム、カンボジア、ラオスからの「インドシナ難民」を日本は積極的に受け入れた。そして彼らが辿り着いたのが愛川町だった。愛川町にはラオスのお寺だけではなく、ベトナムやカンボジア、タイなどの寺院も所在する。
役場の担当者曰く、町が特にこれといって施策したわけではないのだという。
「難民だからと受け入れている訳ではなく、町民を受け入れているだけなので……」
ビルン会長にも「なぜ愛川町だったのですか?」と尋ねてみたが、「たまたま……」と言っていた。
現在、愛川町の人口は約4万人弱。その内の8%は外国籍住民である。だいたい10人に1人が外国人の計算になる。ラオス人はというと、愛川町住民が多いわけではないがラオス文化センターに集まるラオス人の多くは神奈川県内に住んでいるという。在日ラオス人は約3600人。そのうち、神奈川県在住ラオス人は約1200人以上に及ぶ。ビルン会長曰く、日本全国に住むラオス人が愛川町のお寺を訪ねてくるのだという。
愛川町の景色をみて、サーンさんはこんなことを言っていた。
「いいなあ、この町、住んでみたい。だって、ラオスの風景とよく似ているから」
なぜ愛川町なのかーーの答えがここにあるように思えた。