JR水戸線「結城駅」から徒歩7分。大手チェーンの飲食店や薬局が立ち並ぶ大通り沿いに、結城麦酒はある。
ログハウス風の醸造所の一部はガラス張りで、店内がよく見える。私が約束の時間に訪れると、醸造所でビールを仕込む塚越さんの姿があった。窓をコンコンとノックしておじぎする。それに気づいた塚越さんが、ニコッと笑って裏口の方向を指さした。
裏口から出てきて挨拶をする塚越さんの第一印象は「背筋がピンと伸びていてエネルギッシュ」。
塚越さんは1958年、結城市で生まれた。「幼い頃から運動が好きで、勉強はぜんぜん好きじゃなかった」という。
「飛行機が好きでね。将来はパイロットになりたいと思ってた。でも中学校であまりにも英語ができなさすぎて、『こりゃパイロットにはなれないな』って諦めて(笑)。教師になったのは、親から言われたからなんだよ」
「大学で教員免許をとりなさい」と親に勧められたのは、大学に進学した時。自営業だった親の、子のためを思った助言だった。しかし塚越さんは「教師になんて絶対ならない!」と猛反発した。
「私は教師が好きじゃなかったんですよ。教師なんてえらそうに意見を押し付けてくるだけだって、当時は思っていたんです。でも大学の費用は親に出してもらっていたから、親に従って渋々教職課程をとりました」
大学4年生になり中学校へ教育実習に行ったある日、子どもたちが話しかけてきた。
「僕、実はこの学校の先生がいやなんだ」 「先生ってなんでも自分たちで決めちゃうよね」
自分と同じように教師を嫌う子どもの多さに驚いた。その時、思った。
「この子たちのためにも、自分が教員になった方がいい」
その日の夜、友だちに「教員採用試験の申し込みはいつまで?」と聞くと、「明日まで」と返ってきた。慌てた塚越さんは、「郵送では間に合わない」と教育委員会まで直接書類を提出しに行き、なんとか試験を受けられることになった。
教員採用試験まで、たったの2週間。「必死に勉強したら教員になれちゃったんだよ」と茶目っ気たっぷりに塚越さんは笑う。
あれだけ「教師になりたくない」と言っていた塚越さんだが、教頭や校長を歴任したのち、定年まで勤めあげた。37年間の教員生活をこう振り返る。
「昔は荒れた学校に赴任したこともあってね、生徒たちと『向き合え!』『ぶつかれ!』という風潮だった。でも長い教員生活で学んだのは、向き合うんじゃなく、同じ方向を見ればいいってことだったね」