それにしても地球の反対側、コロンビアの首都ボゴタで生まれた「シティーボーイだよ」というラウルさんが、なぜ常陸太田市の静かな里山でイタリア料理店を開くことになったのだろうか?
子どもの頃から、お母さんの手伝いをして料理することが好きだったというラウルさん。料理人を志して、21歳で単身イタリアへと渡った。「なんでも好きなことをしなさい」という母のサポートも大きかったという。
5年間、ベネチアからナポリまでを旅しながら、さまざまな店をノックして「お給料はいらないから、なんでも手伝わせてください」といって、受け入れてくれる店を渡り歩き、店を手伝っては賄いを食べさせてもらってた。そうしてたくさんの店、たくさんの地方の味を、覚えていったのだという。さらにスペインに渡り、サン・セバスチャン、バルセロナ、マドリッドなど各地で1年かけて、同じように料理修行の旅を続けた。つまり「楽生流」の料理は、南米からヨーロッパまで、ラウルさんの人生の長い旅がベースになって作り上げられた、オリジナルスタイルといえるだろう。
さて、ラウルさんの旅はこれだけでは終わらなかった。ひょんなことから運命の舞台は、ヨーロッパから突然日本へと移るのだ。15年ほど前、ラウルさんは日本で働いている兄のもとへ遊びにきた。観光だけのつもりだったが、日本滞在中の最後の日に、東京で、のちに奥さんとなる、サルサ・ダンスを学んでいた奈美さんと偶然に出会った。その日はメールアドレスだけ交換して一旦は帰国したが、奈美さんとの出会いによって、今度はラウルさんの日本への「旅」がスタートしたのだった。
コロンビアと日本で1年半の遠距離恋愛を続けた後、2011年に結婚。東京で暮らすようになったラウルさんは、フードサービス大手のシダックスグループに正社員として勤務。当時は日本語がほとんどできなかったのにも関わらず、料理の腕前とチャーミングな人柄、そして経理のセンスを経営陣から見込まれ、やがてさまざまな店の立ち上げや運営、従業員のマネジメントを任されるようになった。その後は外食産業大手の株式会社グローバルダイニングに勤め、東京タワーなどの観光地や一等地での店舗を運営を任されるようになった。
東京では、料理の味だけではない、皿の盛り付けの美しさ、そして食器の流行や美しさなど、見た目のセンスを特に学んだというラウルさん。センスを磨くための日々の食べ歩きなども含めて、東京では多忙を極めていたという。やがて、まったくできなかった日本語も流暢になり、母語のスペイン語のほか、イタリア語、英語、ポルトガル語、日本語と5カ国語を駆使できるようになっていった。
未知の細道の旅に出かけよう!
町と人を変えたコロンビア人シェフの冒険
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